
もう何年も、川へも海へも釣りに出かけていない。川(湖沼)釣り用のロッド(竿)も海釣用のロッドも、何本か階段下のスペースで眠っている。ルアー(魚型の疑似餌)もワーム(虫型の疑似餌)も使わないままのが何種類もある。夜釣り用のリチュウム電池付きの蛍光浮き、ヘッドライト、ライフジャケット、磯用の靴とか…(たぶん)すぐ使える状態に揃っている。
学生の頃によく通った中華料理店(もちろん学生値段)のオーナーは釣り好きで、私のスケッチ用のリュックとイーゼルのセットを釣り道具と勘違いして、「今日はどこで(釣りをしたの?)」と何度も、カウンターの向こうから毎回質いた。今から考えると「そういう「(釣りの)よしみ」だから、この人には特別サービスするよ。いいよね?」と在店中の他の客に暗示してくれていたんだろうと思う。なんて優しい心遣い。当時はそんな心遣いなど深慮できず、「釣りの道具とスケッチの道具の区別も分からないなんて、目が悪いのかな」なんて思っていた。恥ずかしいですが、今になってようやく理解できます。
ある時期の英国では、(男の)子に伝えなければならない「父の義務」は「釣り」(のマナー)だという。「(鱒)釣り」と「(狐)狩」は、「貴族の男児」なら必ずマスターしなければならない「必須科目」だった(らしい)。鎖国で、欧州文化と断絶していた江戸幕府の歴代将軍にも、「鷹狩り」を必須修得科目」としていた事実がある(「偶然」とは言いがたい事例がたくさん)。私はそれを必ずしも肯定するわけではないが、なぜ「釣り」なのか、ぜひその意味は知りたいと思っていた。dans、ウォルトンの「釣魚大全」(これは名著ですよ)などを読んだわけです。
「英国から学ぶ必要などサラサラ無い」などと言われれば、無言になるしかない。でも腹いせに、「そんな必要が無い」と断言できる「根拠」を示せよ、くらいは言うのが普通だ。