福島原発事故による放射性廃棄物を、福島県内に中間処分施設を作って(一時的に)保管するという突然の政府案が福島県を驚かしている。菅首相は最後の最後まで突発発言で後に汚れを残していくつもりらしい。
政府発言はこの中間処分施設を「最終処分場にはしない」と言っている。では、どこがこのあとの最終処分場になるのか?ハイ、そうですかと核廃棄物の最終処分場として快く受け入れてくれる自治体が今の日本のどこにあるだろうか?
私の故郷、青森県下北半島東通村の隣に六ケ所村という自治体がある。そこには日本原燃という核再処理をする会社・施設がある。原発を持つ電力会社や経済界、原子力関係の団体などが政府主導で共同出資して設立したものだ。この「再処理」という語がクセ者で、プルサーマル計画という、ウラン燃料の燃えカスからプルトニュウムを取り出し、再び燃料として使うという計画が頓挫している現状では、実態はほぼ放射性廃棄物の置き場に過ぎない。また、30年以上経つこの計画で、実際にプルトニュウムを抽出・再燃料化して使ったことは一度もない。この施設の建設を巡って県・住民と国との間で言い知れぬ怨恨が渦巻いた。この時もすったもんだの末、国は「最終処分場にはしない」と明言したが、そんなことを信じる人は世界中探しても一人もいるはずはない(政府関係者でも)。当時は自民党政権下で、知事も自民党系だったから可能になった「最終処分場としての」中間処分場である。
福島原発の影響は全国どころか世界に及んでいる。原発事故へのアメリカ、フランスの原子力関連企業の協力姿勢は端的に言って、事故処理への技術的関心、格好のケーススタディになっている。国内だけで見ても静岡のお茶でさえ流通禁止になったりした。放射能が非検出、または基準値以下として売られている栃木、茨城、千葉産の野菜、果物、魚類をスーパーで見よ。いくら国や県が安全だと言っても、山積みに売れ残っているではないか。怖いものに敢えて手を出す必要はない。それが実態だ。それを承知で、敢えてうちが最終処分場になりますと手を挙げる自治体があるなど、想像する方が無理。つまり、六ヶ所村と同じ運命になるということだ。
青森県の場合、自治体もまた最終処分場だと公に認めないことで住民に納得させようとし、住民もまたそれを認めないことで一種の結論を先送りしている。その代償としてわずかな金(最終処分場としてなら)で問題を「思い出さない」ことにしているかのようだ。
国も自治体も住民もははっきりとそこが「最終処分場」だと認めるべきだと思う。認めたくはないが、溜まってくるから何とかごまかしてどこかへ置こうという態度は止めるべきだ。モノを喰えば嫌でも便は出る。だからどんなにきれいな家にでもトイレは作らないわけにはいかない。しかしトイレもいずれは満杯になる。その時には業者に浚ってもらう、あるいは自分たちの税金で下水道を完備する。業者や下水道の先もいずれ一杯になる。だから浄水場が必要になる。その浄水場にもカスは溜まる。本当に使えないカスは無害処置を施したうえで埋め立てなどに使う。その埋立地がすなわち最終処分場である。その流れがはっきりと示されれば納得して税金も払うという気も起きてくる。核の廃棄物もまったく同じことだ。流れを明確に示し、具体的にここがそうだと示すことで、保障も、事故への対策もはっきりとテーブルの上に乗せ、すべての知恵を結集させることもできるようになる。それを中間処分場などと曖昧にすることで、最終的な処理方法も、コストも具体的に検討することが出来なくなる。そのうちにやがて事故が起きる。それが原発に限らず政治的判断の問われる物事に、正面から向き合わない日本の体質だ。つまりは政治家が本質問題から逃げているということだ。
誤解のないように言うが、福島のどこかを核廃棄物の最終処分場にしろと言っているのではない。中間処分場などと誤魔化すなという意味である。震災の復興は住民の要望だし、見えもいいから政治家もやりたがるだろう。けれど手を汚す仕事、時には泥をかぶる仕事は委員会に下駄を預け、誰もやりたがらない。脱原発とか、再生可能エネルギーはきれいな言葉だが、今ある廃棄物、降下物、新たに排出される放射能をどうするのかという議論を抜きにして、あと何年稼働するとか止めるとか発電コストとかの話は出来ないのではないかと思っている。福島県に中間処分場を作るということは、現状で言えば福島を捨てると言うことに等しいのではなかろうか。そこに憤りを感じる。 2011/8/27