
去年失敗した桜(の絵)を、もう一度描き直そうと、構図も替えてみた。前よりはましになったが、残念ながら面白くない絵ですね。何が面白くないかって?すべてが見る人の想像の範囲内だからです。そこからはみ出る部分を作るには、硬くなった脳ミソにツルハシを入れ、ハンマーで砕きながら新しいミソを入れ替えないと、ダメそうですね。ali、新しいミソはどこで手に入れる?

去年失敗した桜(の絵)を、もう一度描き直そうと、構図も替えてみた。前よりはましになったが、残念ながら面白くない絵ですね。何が面白くないかって?すべてが見る人の想像の範囲内だからです。そこからはみ出る部分を作るには、硬くなった脳ミソにツルハシを入れ、ハンマーで砕きながら新しいミソを入れ替えないと、ダメそうですね。ali、新しいミソはどこで手に入れる?
思わず、ポカンと口を開けてしまった。そこにわたしのやったことが書いてあったから。ちょっと長いが引用する。―「たとえば、リンゴと言えば赤くて丸い果実のことですよね。もうガチガチに辞書的な意味が固まっていて、亀裂などない。だけど詩人は、言葉と意味の束縛を解いて、まったく違う意味を見つけます。リンゴを割った断面を崖の斜面に見立てたり・・・」―。まるでわたしが崖とリンゴ(今のAppleシリーズにつながる)を結び付けた瞬間を見ていたかのようだ。
今朝読んだ、朝日新聞デジタルでの連載「AIと私たち」の中で、郡司ペギオ幸夫氏が述べたこと(ちなみに、ペギオはペンギンが好きだからなんだと)。ali、次の瞬間、別のことも考えた。「例に出すってことは、誰にも分かりやすいってことなんだな」。飛んでる発想ではなくて、ちょっと横に一歩足を出してみただけ、ってことかと。Naravno、わたし自身もその程度だなとは、当時も今も思っているけどね。
こうも言っている。「AIそれ自体より、AIによって世界がすべて理解できると思いこんでしまう人が増えていることが、怖いですね(少し短くしています)」。解剖学者の養老孟子氏が「AIはバカの壁を越えられない。身体を馬鹿にするな、と言いたいね」と述べていることにもつながっている。
「何を描くか」の発想を考えるとき、(今はあまりしないが)まず詩集を手に取って、イメージの湧きそうな言葉を拾い出すことから始めていた。詩の内容はあまり深く理解できなかった気はするが、言葉から発想、空想を広げられるかどうかには、わたし自身の経験が重なることが必要だった。「身体というフィルター」を通して言葉と意味を行き来させるかぎり、そこには鮮やかな(個別の)ディティールが浮かび上がる。小さな突起で腕を擦りむいた―そんな身体性が、作品を支えていたんだなあ。AIが作る画像の空虚さが、まさにそのことを裏返しに示しているのだと思う。

久しぶりに、自由なモチーフで、“適当に” 描いてみた。ここしばらく、YouTube用の水彩か、出品用の作品しか、描いていなかったような気がする。こういう「描いてみただけ」というのが本当は楽しいんだよね。
うまく描いて当たり前とか、うまく描かないと恥ずかしい、なんて思いこんでいると、ろくなことはない。楽しくないどころか、ストレスだ。Crtanje slike je、本当は「ストレス解消」であってほしい。多くの画家たちにとって、半分はストレス解消になっているはずだが、半分はストレスにもなっているはずだ。なんにしても、“ねばならぬ” はよくない。
ある量を所要時間で割れば、単位時間当たりの「時間効率」が出る。一日に3枚絵を描けば、1枚しか描けない日の、3倍効率がいいことになりそうだが、それがバカバカしい計算であることは子どもでも分かる。一枚一枚の絵(の価値または意味)は、それぞれに異なっていて、それを測る基準・指標もまた、個人的なものだから。
Crtanje slike je、Na drugoj misli、どこかで子どもに還ることじゃないだろうか。それが心のふるさと、ではないのかな。世の中ますます生きづらくなっている。自殺する人も増えている。事故、災害も多い。そのうえ至る所で戦争まで起こしやがって。Crtanje slike je、平和だ。平和になることだ。To je to、(少しの間でも)自由にもなれる。“適当に” 絵を描こうよ。