
少年 T は臆病ではあったが、同時に残酷でもあった。友達と遊ぶときは少し気後れして後ろでもじもじすることもあったが、一人になると大胆になり、生き物を殺すことも案外平気だった。
彼の獲物の多くは小動物、いちばん多いのはカエルだった。雪が解けると、どこからともなくあちこちにカエルがモソモソとうごめいてくる。それを手製の弓で射るのである。矢はススキの茎で、周りにいくらでもあった。それをナイフで鋭角に切り取り、緩んできた地面に突き刺すと茎のなかの空洞に泥が入り、先端部だけ適当に重くなる。矢は先が重くないとうまく飛ばないのだ。
不思議なことに、カエルを殺しているという意識は、彼の中に全然浮かばなかった。むしろ正確に矢を射ることだけに意識が集中していた。カエルには恐ろしい敵だが、彼にとってはカエルは動きの遅いただの標的に過ぎなかった。しかもそれは彼だけの遊びではなかった。友達もみな自分で作った弓を持っていて、同じようにカエルを練習台に、熱心に弓の腕を競い合っていたのだった。やがて暖かくなり、カエルの声が田んぼから聞こえるころには、弓のことも射られたカエルのこともきれいさっぱり忘れて、小魚を追うのに夢中になった。
小魚もまた彼の遊び道具の一つに過ぎず、彼にとってそれは「生き物」ではなく「さかな」という「動くモノ」であった。カエルと少し違うのは、時々は家に持ち帰って食べることもあることくらい。たいていはさかなを捕まえるところまでしか、彼の興味はなかった。捕まえたあと、その小魚をどうしたかさえ覚えてはいなかった。ただひたすら捕まえること。よりすばしこく、捕えることが難しければ難しいほど、小さなさかなたちは彼の興味を駆り立てた。捕まえた小魚の、手の中でぴちぴちと激しくくねる、くすぐったい感触は彼を有頂天にさせた。そしてぬめりの中に光る極小の鱗、うっすらと浮かび上がる斑点の美しさを、美しいという言葉さえ思い浮かべずに感じてもいた。
もう少し大きくなってからは、狙う獲物も大きくなった。もうカエルや小魚は卒業していた。素潜りと魚釣りの時期を過ぎ、アケビや山葡萄も終わって冬になると、T たちは野ウサギを狙うようになった。それは肉も毛皮も確かに有用であり、それを目的に彼の友人たちも雪の中を歩きまわっていたが、彼の興味の中心はやはりそれを捕まえるまでであった。獲物の生態を調べ、その能力を上回る方法で捕まえること。それが T の願いであり、理想だった。ほかの少年たちがウサギ狩りにも飽きて山へ行かなくなるころ、とうとう狐が彼の対象になった。
狐は、彼の相手にふさわしい警戒心と周到さ、そして知力とパワーを持っていた。すぐに彼は狐の能力に驚嘆し、一種の憧れにも近い感情を持ちはじめた。この美しくも優れた獲物を自分だけの力で捕らえたい、その一方でどうか自分が仕掛けた罠を凌ぎ、生き延びてほしい。そんな矛盾した感情を狐に対して持つようになっていった。
「罠にかかったらどうしようか。」今度は彼も、捉えたあとのことを真剣に考えないわけにはいかなかった。いま彼の狙っているのは、足跡の大きさから考えて、ある程度の大物だと予想していた。おそらく中型の犬くらいはあるだろう。祖父の部屋の長押にぶら下がっていた、自分の身長ほどもある大きな狐の襟巻を彼は思い浮かべた。―あれより大きいかも―そいつが罠にかかったときの、死に物狂いの抵抗を T は想像した。「逃がしてやるのが一番危険で難しい。」彼は何度も頭の中で、うまく逃がしてやる方法をシミュレーションしてみたが、うまい方法が思いつかなかった。鋭い牙で噛まれ、自分も大怪我をする可能性の方が大きい。―手早く殺すしかないが、چگونه؟
獲物の逃げ場をせばめ、足場の悪いところに追い込んでいる以上、自分の足場の幅もぎりぎり、斜めでしかも凍っている。足が滑れば足元の深い淵の中へ自分が落ちてしまう。棍棒で殴り殺すにしても、すぐ頭上には細い枝が網の目のように絡み合っている。―棍棒を振り上げるスペースは無い―彼はその場面を脳の奥の方でゆっくり、精細なビデオで検証するように繰り返していた。
少年 T のお話はここまで。わたしの夢の中で T は今でも時々獲物を追っているが、もう捕まえる気持ちはないらしい。けれど彼らを追い詰めるまでの緊張感と、それを逃れていく動物たちの本当のカッコよさに、いつまでも夢から覚めたくない思いがある―夢の覚め際にかならず T はそう言うのである。