
前回のバリエーション。基本的にシンメトリー(左右対称)の構成だが、どうなんだろう?しばらく眺めることにする。砂漠の砂の中に、夜露!がしみ込んで砂がセメント状に固まり、きれいなバラの花の形を作り上げる現象がよく知られている(私も何個か持っている)。そんな風に、砂をスコップで掻き上げたら、中から勢いよく花が飛び出てくる。そんなイメージ。砂それ自体がシェルターであり、カプセルは自分を守る二重の自衛機構?
5月1日、国立新美術館で国展を見た。国展は国画会という大きな団体が主催する美術展。知人もたくさんいるが、珍しく2人にしか会わなかった。メンバーでさえ、あまり出かける気分にならないのかなと思った。内容は、さすがにあまたある団体展の中では随一と思う。表現意識も、技術レベルも幅の広さも深さも現在の日本の頂点にあると思う。
彼らの絵を見たら、嫌なことを忘れていた。沈んだ気持ちでいても火を点けられる。負けられないとかいうのではなく、こんな風に頑張っている人たちと仲間でいるためには、自分ももっと頑張らなくては、そして彼らもまた頑張れといってくれているように感じる。彼らの絵の力だ。
連休は遠くにも、近くにも遊びには出かけたくない。渋滞も嫌だし、駐車場を探すのも嫌だから。子どもが小さい頃は、何とか楽しい思い出を作ってやろうと無理しても出かける、まあ平凡な思考の父親だったが、子どもが大きくなった最近では、平凡さに無気力が加わり、ちっとも出かけたいと思わなくなってしまった。
震災以来、私の内側も、外側も変わった。気持の上でも嫌なことばかり続くが、それでも無気力はまずい、無理しても出かければ必ず何か面白いものが目に付く。それが大事だと思うけれど、気持がついていけない。逆らわず、こっそりと独りで絵を描いたりして過ごす。絵もまだまだ他人の目を意識したレベルに留まっている。こんなんじゃ駄目だ。自作のつまらなさをじっくり味わうことにした。
2010年暮れに「シェルターの男」という題の作品を5、6枚続けて描いた。初めは防波堤型のコンクリートのような壁の内側に立って?いる、男だった。そのうちシェルターの形が、少しカプセル状に変わってきた。そこへ今度の大津波と原発事故!何ですか、この恐ろしい一致は!
カプセルのヒントは花粉症の人のためのアイデア、宇宙服の顔部分のイメージ。なのに公開の時期によって、この絵は放射能を暗示していると多くの人が思うに違いない。以前、山から元気よく真っ赤になって下り降りる雲のシリーズを描いた。そしたら雲仙普賢岳が爆発し、絵とそっくりの火砕流が毎日テレビで報道され、私はそれを見て描いていると、殆どの人がそう思ってしまった。それより何年も前から描いていたのだが、テレビの力に吹き飛ばされてしまった。表現の力不足だった。
今回もそうなるかもしれないが、これはあくまで私のイメージ。実際の花のスケッチや、高山の厳しい気候に対応する植物の驚くべき機構など、いろいろなものを組み合わせて、実際に在っても不思議ではない存在感として見せたいという思いは、人間だか鬼だかわからないような「男」の存在感と同じ。今回はもっともっとイメージを練り上げ、テレビに負けない表現力をつけたいと思っている。