時間囊

122011年海棠水彩F6本月

実家にいる弟から封書が届いたああ例の書類が出来たのだなと何気なく表を見ると宛名が息子の名前になっているなんだろ?

弟の簡単な手紙とともに一枚の葉書きが入っていたと見せてくれたのは息子が小学校4年生の時に書いた十年後の二十歳の自分あての葉書きだった十年後にも確実な住所を書きなさいと言われ実家の住所を書いたのだ自分としては必ず引っ越しをするに違いない(むしろして欲しい)との想いもそこに顔を出している

弟も面食らったようだが私たちはもちろん本人ももうすっかり忘れてしまっていたらしい葉書きには三人で那須に行った時の写真が印刷してあった三脚を使って自分で撮影し自分でパソコンを使って印刷した葉書きに学校で文章を書いたという

十年は短い私たち親から見れば子どもは図体ばかり大きくなるが中身はちっとも成長していないように見えるでも子どもがそれを書いたときは10歳それまでの人生と同じ長さの未来など遠い遠いかなたに違いない私自身の記憶に照らしてもそうだ

葉書きの最後に「お父さんお母さんはどうしているかな死んでいないといいけどな」とあった子どもにとって親は国よりも社会よりも身近に血の通う形で自分を守ってくれるかけがえのない存在だその存在なしに未来に夢を架けることはできない親の不幸不運無能はそのまま子どもの未来に影を落とす一瞬自分はどんな傘をさしかけどんな影を投げてきたのだろうと心を探り見た

東日本大震災で親を失った子どもたちはそうした影さえ失ったのだとあらためて思う「死んでいなければいいけどな」とは子ども心にそんな現実を感じていることの表れでもある十年後の今「お父さんがもう少し社会的にまともな人だったらなア」と不運を感じているかも知れない

子どもは親を選べないだからこそ子ども自身に理想が必要になるのだ親を尊敬するという子どもを私は好まない(それ以前に尊敬されない)(子どもから見て)親など飯と金さえ出してくれればそれで十分という存在だ親を踏み台に自分の世界を作って行ければそれで良い私も10年後の自分へのタイムカプセルを残してみようかと思う 2012/1/28

ominato(Ominato)

海上自衛隊大湊基地2012正月

父の介護に通った病院から車で2分海上自衛隊大湊総監部(60数年前の旧日本海軍大湊基地太平洋戦争の幕開け真珠湾攻撃への連合艦隊はここに集結したらしい)がある現在は海上自衛隊の大湊・北海道方面司令部になっている1月3日の夕方久しぶりに穏やかな冬の日病院の帰りに寄ってみた時の写真だ

小学生の頃海洋少年団というのがあったやせっぽちでひよわだった私は「海の男」の強いイメージに魅かれて入団を熱望した手旗信号などはすぐに覚えた(なぜか今でも覚えている)白い将校服に憧れたのが今では夢のようだが艦を見ると今でもなんだかドキドキする

私は戦争を知らない世代だでも子供の頃の親の話といえば戦争に関わった話が多かったように思う戦後20年も経っていない時点ではまだ記憶も生々しかったに違いない

国のため親のためそうやって自分自身を見つめることのできなかった祖父・親を見ていたそんなこと真っ平御免俺は俺流で生きるよと両親の心配を鼻で笑い飛ばしてきた自分がいざ自分の子供に対してみるとなんだ俺もかと愕然とする

基地のラッパが鳴ったラッパのそれぞれの意味はもう忘れてしまった   2012/1/16

 

 

 

關於雪的回收

 

冬の下北(冬季Simokita)2012年

下北のいや下北に限らず雪の風景は美しいモノクロームの世界とよく謂われるのでついそんな風に思いがちだが自分の体験をちょっと振り返れば決してそうではないことを誰でも思い出すだろう

先日この雪の風景に触れなんだか忘れ物を取りに帰ったような気がすると書いたたしかにそうなのだ中学生自分にはほとんど勉強などせずウサギやヤマドリなどの罠かけに夢中になったりその途中スキーで危うく2度も遭難しかけたりしたことを今回の帰省中毎晩のように弟や母と思い出しては話したものだったそれらは自分の体のどこかに沁み込んでいてこんな雪を見ると自然に気持ちが昂ぶってくるのをくるのを感じていた父のことがなければ、2、3日はウサギ罠でもかけに出かけたかもしれないもっともそれがなければ帰りさえしなかったに違いないが

本格的に絵を描くようになったはじめの頃いろんな色を使いこなしたあとやはり最後はモノクロームだなあと何度も思ったのはこんな風景を見てきたからだろういつの間にか生活に追われそういうことさえ忘れてしまっていた私のことを「幻想作家」だと言った人がいるそれは恐らく当たっているごく小さな子供のころからなぜか自分でも そんな風に感じていたからだ雪は幻想を育む雪国は幸いである