"Thời gian là tiền" là một cụm từ khó chịu。"Giống như một mũi tên"、Thời gian ruồi. Tất cả chúng đều là những từ xấu.。"Đừng hoãn lại hôm nay đến ngày mai" tại sao、Tôi đang nghẹt thở、Có rất nhiều từ đe dọa trên thế giới?。
dơi、Tôi knouw-tôi biết。KHÔNG、Mọi người đều biết。それはみんなが(わたしと同じように「時間を有効に使うのが苦手」だと`自覚しているから)聞きたくない言葉でありつつ、けれどもそれじゃダメなんだという「ダメ人間コンプレックス」を持っているからです、よね?
時間の無駄をするような奴は、ろくなものになれない。でも―ロクなものになりたくないなら話は別かも。そもそもロクなやつってどんな奴なんだろう。時間の無駄をする奴は金を稼げない、あるいは金持ちになれない。nhưng、逆に考えれば、時間と体力をお金と交換しているようじゃ、今の時代、むしろダメなんじゃない?むしろ、お金があれば、時間を買いたい人の方が普通なんじゃない、貯めてどうする?みたいな。
「早起きは三文の徳(得?)」たった三文(って何円?)くらいじゃ、その分寝てる方が健康的だし、大リーグの大谷選手だって、「余分に1時間あったら寝る」方が、良いパフォーマンスできるって言ってるよ。
Nhưng vẫn vậy、まだ一般的な社会通念としては、時間をなにか「生産的なもの」と結びつける、近代的というか、産業革命以後的というか、そういう思考法から抜け出ているとは思えないよね。太公望じゃないけど、ボーっとした時間を過ごすことが人生の理想だ、という思想もあったはずなんだけど、いまはそういう選択肢がひと昔より減ってしまったのかな。選択肢が増えること=文化の発展、なんて言い方もあったけど、待っても² 実現しないから干からびてしまったのかもね。「そんな誰も読まないブログを書くなんて時間の無駄よ」と、後ろの方で(昔は絵を描く仲間だったのに)妻がイラついているしね。
それはちょっとつらいだろうけど、nhưng、絵を描くって、時間を二重三重に(ホントは四重五重)無駄遣いすることだ(説明もなく、いきなりだけど)と思うんだ。何度も同じ時間を繰り返し(現実の時間は容赦なく過ぎているのだが)、そうしているうちに何かぼんやり浮かび上がってくる。それを描くのが芸術家の仕事、だと思っていたけど、もう世界観が違うんだよね。グダグダ言わず、サッサと消えなければ自分を守ることさえできない。それが現代さ。……常盤(ときわ)金成。