
2/3に載せた写真の元の絵がどうにも気に入らず、気になっていたので描き直してみた。前回のスケッチは10号大だったが、今回は8号にし、そのぶん下をカットしたので、顔の部分などはむしろ少し大きくなって描きやすくなった。
Đó là kiến thức phổ thông (hay đúng hơn là、Nếu tôi không làm điều đó, tôi không thể vẽ nó)、Điều này không nhất thiết xảy ra với màu nước (mặc dù đó là một câu chuyện khác khi nói đến các tác phẩm màu nước quy mô lớn).。Lần này tôi tự đặt cho mình nhiệm vụ “vẽ chỉ bằng một cây cọ”.、14号のコリンスキー一本で描けるサイズにする必要があった。
「人の顔」には細かい部分が集中しているから、顔を描ける筆かどうかが選択の基準になる。実際には“細かい部分”は顔だけではない。髪の毛も一本一本見れば細かいし、指の一つ一つの関節やそのシワだって、服の生地の織り方だって、描こうとすれば皆同じように細かい。Nhưng、顔以外は「鑑賞者にとって」案外どうでもいいようなところがあって、いい加減に描いてもあまり気にしない。Tuy nhiên,、顔だけは誰もが強い関心を持って子細に見る、だけでなく“描かれていない”気分までをも深く読み取ろうとする。だから顔が基準になるのである。
nhưng、わたしは顔もまた「出たとこ勝負」でいいと思っている。微妙な表情にこだわるとつい小さな筆で細かく描きたくなる。するといつの間にか、水彩本来の、水にまかせるような自由さ、気楽さが失われてしまう。造形的な試みも背後に押しやられてしまう。それよりは「目、鼻、口があればいい」的に描くほうを好む。それが“一本の筆だけで”の目的だったけれど、やはり慎重な筆遣いになってしまった(再描き直し?)。