Step by short step

今ごろ年賀状だって

step by step (一歩ずつ)という慣用句を自分の感覚に合わせて作りなおしてみた「一歩」というのは(わたしにとって)意外に大きく半足(足裏の長さの半分)ずつ見た目で言えば“すり足”のように進むことさえかなわないことがあるという意味を込めたつもり(ちなみに英文的には不適切な句だと思う)

毎回動画の話で恐縮だがあるYouTuber が言うには「YouTubeを始める人のほとんどは挫折する」最初の数カ月は一歩も進まないからだという頑張って動画を作っても反応がゼロかそれに近い日が続き少し視聴数が増えても嫌なコメントが来たりすると落ち込んで熱意を失う、ظاهرا。

幸い?わたしの場合わりと最近まで視聴数とか全然気にしていなかった(そんな余裕もなかった)とりあえず作る練習作ったものをアップするこの二つを繋ぐことができるだけで100% 満足できたそんなごく小さな技術的なことを一つ覚えるたびに小さな喜びを得た小さな成功体験の積み重ねというやつ?
 「ほとんどの人は視聴数〇万回とかチャンネル登録者△万人というところだけ見て自分にも簡単にできそうだと思う」とも言っていたが「そんなの無理」と真面目にとらえなかったのもまだ続けられている理由の一つかもしれないいろいろ数値や例を挙げて説明していたが、به طور خلاصه、結果を早く得ようとし過ぎるからということのようだった
 動画であれなんであれ最初は(対外的な)結果など望めないのが普通。ولی、(自分の中では)難しかったところがなんとなくできるようになったそれらしいかたちをとれるとるのが苦にならなくなってきたなど小さなステップアップは手応えとして誰にでもあるものだその小さな short step の積み重ねが step を作る。در حقیقت、皆そうやってきた

苦しいのはそれがどれだけあれば 「一歩」になるのかそれにどれだけの時間がかかるのかが分らないということではないだろうか今のアメリカ流の教育法の一つはstep をできるだけ小さく区切って具体的な目標を明示することなのだそうだそしてこの教育法が多くのノーベル賞受賞者を生んできたと何かで読んだ
 これが出来ればグッジョブそれもできればコングラチュレーション(おめでとう)グレート!(すごい!)(日本流に)遠いゴールだけを見て「これくらいじゃまだまだ」と思うから苦しいのかもしれない自分で自分を教育しよう人が褒めてくれなくたって自分で勝手に褒めようご褒美も用意しようStep を さらに小さく区切ってまずは自己満足から Start from a step.

پیوند (هایپرلینک)

کیف هدیه سال نو اوریگامی آقای A (الگوی حذف شده)

پیوند、اتصال、لینک اون یکی。من در مورد پیوندها از ویدیوی طرحی که در حال حاضر در حال ویرایش آن هستم، چیزهای زیادی یاد گرفتم.、خلاصه یعنی خیلی زجر کشیدم.。
در اکثر ویدیوها، تصویر و صدا با هم ترکیب می شوند、"پیوند شده" است、در ویرایش، این اغلب به طور جداگانه استفاده می شود.。فقط بخشی از ویدیو را قطع کنید、اضافه کردن موسیقی های دیگر و غیره、اصولاً هر قسمت جدا شده (به نام کلیپ) است、می تواند به عنوان جداگانه در نظر گرفته شود。
 

با این حال ،、هنگامی که یک پیوند شکسته بر روی خط اصلی قرار می گیرد、نمی‌دانستم که می‌توان آن‌ها را دوباره پیوند داد، حتی اگر در مکان‌های جداگانه باشند.。وقتی دوباره لینک می کنید、گیره های برش و برش به صورت خالدار در خط ویرایش مخلوط می شوند.、اگر یکی را حذف کنید、خیلی دور、شریک پیوند به ظاهر نامرئی نیز در همان زمان ناپدید می شود.。وقتی علامت پیوند مجدد روی صفحه ویرایش ظاهر شد، گفتم: «من قبلاً این علامت را ندیده‌ام.、تعجب کردم که چی بود.、این ایده خوبی نبود که از پیگیری آینده غافل شویم.。

حتی یک ویدیوی 10 ثانیه ای、مثلا 30 فریم در ثانیه (قاب = برش های کوچک = چند عکس در یک ثانیه ردیف می شوند؟、) سپس、 10(ثانیه) x 30 فریم = 300 فریم (عکس ها) در یک خط مستقیم قرار می گیرند (زیرا به طور مداوم نشان داده می شوند)、(به نظر می رسد در حال حرکت به چشم انسان است)。いまは1秒60コマに設定しているから、600枚の写真がズラーっと並ぶことになる(微妙に異なる写真が600枚も並んだら、1枚ごとの微細な変化など人間の目では判別できないし現実的にも不便なので実際にはベタッとした単純な色面で表示される)
ویدیوی در حال ویرایش تقریباً به پایان رسیده است و تقریباً 25 دقیقه است.、حدود 90 دقیقه قبل از ویرایش است.、طبق محاسبه، ویدیو به تنهایی تقریباً 32 است、شما 30000 فریم را مدیریت خواهید کرد (عکس).。چون ویدیو، صوت و روایت وجود دارد、空白コマも含めると1本の動画で100万個近いコマを切ったり貼ったりしていることになる(実際には2台のカメラを使っているから、200万コマ)その中の数百コマ単位の「まだら」のリンクを『無計画に』移動切り貼り削除を繰り返したらどうなるかメチャクチャになるのは当然だ
 編集画面ではクリップのすべてを一目で見渡すことなどできないから(可能ではあるがどれがどれか判別できないほど小さく表示される)それが消滅したりすることに気がつかない「消した憶えはないがなあ」とボヤきつつまた別のクリップのリンクを切ってそこに穴埋めをする(問題行為の上塗り!)そんな処理を数十回(数百回?)繰り返したおかげで切り貼りだらけでどこが元なのか判然としない奇怪な映像データに積みあがってしまった(映像を流すと普通には見えるが)

修整は単純に無駄な時間でありとても大きな負担だが一方で「これはまるで人間の社会のようだ」とも思えてきた切ったはずの縁の先がどこかで繋がってまた自分に還ってくる切った繋いだの痕跡が必ずどこかに残っていてそこで別の縁で繋がった誰かに引っ付く自覚できない縁が見知らぬ場所で生まれている―まさに社会―そうかこんなふうに物事を見るべきなんだな―考えてみれば人間の感情や嗜好などとは無縁に見えるデジタルの世界もそれを作ったのが人間である以上人間の痕跡が残らないはずはないどころかむしろ人間(社会)をモデルにしか発想できないはずなのだ(鳶の発想だのメダカの発想なんて現実的に無理だろ?)と気がついた今回はビデオ編集しながらずいぶん社会学習を学ぶ場になりました

三日

ビー玉

俳句で三日とか単純に数字だけいう時それは正月七日までのいわゆる松の内を指す正月の季語なのだそうだ七日は七種粥(ななくさがゆ「草」ではなく「種」であることに意味あり)があるし人日(じんじつ)という季語もある

人日という季語は中国に由来があり七つの生き物(と一つの植物)をそれぞれ一日にあて(八日間)(て感謝し)たことによると歳時記などに書いてあるちなみに一日は鶏(元旦は鶏旦とも言う)二日は狗(いぬ)三日は猪四日は羊五日は牛六日馬七日が人八日が穀(こくもつ)だそうです羊日とか猪日などと言うわけですね

ブログを一日おきに書くぞと大晦日に宣言?したのだったが昨夜?寝たのが午前4時を過ぎていたので早くも挫折するところだったスケッチのビデオ編集中秋のスケッチ会の前にアップするつもりだったのに未だできていないってことです忙しいというより一つ一つの作業が遅過ぎるから苛立ってパソコンの前で大声で怒鳴るものだからもしも誰かが外で聴いたなら「奥さんあんなに怒鳴られて可哀そう」と思うかもしれない事実はあまりにも初歩的な間違いを何百回も繰り返す自分に腹が立って自分自身を怒鳴っているんですパソコンに八つ当たりしなくなっただけちょっと賢くなりましたが

五日には初句会。20句を提出しなくてはならないが今現在ゼロ今ごろ季語を調べているようじゃ長生きしそうだわ