自転車に乗れたのはいつだったか?

ガーベラ(部分) F4 水彩 2011

最近自転車のニュースが増えているそれもマナーの悪さだけが特に取り上げられている感じだつい最近までエコだのクリーンだのと持ちあげていたのは誰だったのかもう忘れてしまっているらしい

事故が多くなったのは一つには乗る人が単純に増えたからだなのにそれに見合う施策がほぼ無いに等しかったからだマナーの悪い人は確かにいるだろう若者に特に批判が集中しているようだがおばちゃんたちのマナーの低さ(無知なのかずうずうしいだけなのかは分からないが)に較べればはるかにマシだと感じている。فقط、命の危険があるようなのはちょっと困る

自転車にも乗る以上は年齢に関わらず交通講習を義務付けまたはもっと積極的に奨励するなどの施策安全なレーンの確保などまず行政がやるべきことがたくさんあるのではないかお金が無い人員が足りないという言い訳はそのために人が死んだり怪我しても仕方ないと言っているに等しいのではないか

ふと自分がいつ自転車に乗れるようになったんだっけ?と考えた

思い出せば自動車を運転できるようになった時より自転車が乗れるようになった時の方がずっと感動的だったことを思いだしたそしてそのことが私の行動範囲を住んでいた地域をはるかに越えさせちょっとした冒険を与えてくれ想像もしなかった新しい風景を私に見せてくれた中学生の夏アルバイトして自分の自転車を買った8千円ぐらいだったような気がする1日200円で働いたがそのお金だけでは足りず残りは親が出してくれた

自転車の文化は日本には根付いていない自転車も自動車もそれ自体の良さを楽しむだけの豊かな気持ちを国民的に育ててこなかったからだそれらをただただ仕事の効率の為だけに使ってきた貧乏根性から未だに抜けられないこの国が高速鉄道から車窓の風景を奪ってしまっても一向に平気なのと根は一緒なのだろう 2011/11/12

 

心臓とウンコ

片腕の男 F6 2011

فکر کردم نقاشی قلب من است。

فکر نمی کنم این روزها اشتباه باشد、من هر روز با ضربان قلب در ذهن زندگی نمی کنم、من سعی می کنم از فکر کردن از این طریق جلوگیری کنم。

چنین روشی برای تفکر、وقتی احساس عمیق احساسات خود می کنید、شاید من قبل از این که بدانم در مورد آن فکر کرده ام。وقتی با چشمانم ردیابی می کردم ، قفسه های مسطح را با چشمانم در یک کتابفروشی ردیابی می کردم.、یک جلد کتاب می گوید: "وقتی گیج می شوید ،、من کلمات را دیدم "انتخابی را انتخاب کنید که برای من نامطلوب تر باشد".。از بعضی از فصل ها、برخی از مواردی را که چشم شما را به خود جلب می کند بیرون بیاورید و بازگردید、این روش معمول است、گاهی اوقات ذهنیت یا علاقه شما می تواند چشم شما را جلب کند。به عبارت دیگر、این بدان معنی است که این نشان دهنده وضعیت فعلی من است。

مجله ای به نام National Geographic、من نسخه ویژه ای با عنوان "تکنیک های بقا برای زنده ماندن در هر نقطه از جهان" منتشر کرده ام.。مطمئناً چیزی مشابه در آن وجود داشت。"وقتی مطمئن نیستید ، انتخاب نکنید、یک لحظه صبر کنید. "。در میان سردرگمی ، دید من باریک تر می شود、ایده این بود که انتخاب هایی که می توانست امکان پذیر باشد ، از ذهن شما ناپدید می شود (گفته می شود که شما نباید در تاریکی انتخاب کنید).。

一言でいえば余裕が必要だということだろうどんなに追い詰められてもというよりそういう状況であればあるほど「動かない余裕」が大切だということだこれは分かっていても難しいいっそ選択肢が無い一つしか道が無いと云う時には人は迷わなくなり心にも余裕が生まれるものだとも言う

絵が自分の心臓だなどと思い込むほど迷いは深くなりそうな気がしてきたそれを拝むように大事にし過ぎてはガチガチになってかえって心臓を悪くしそうだ逆に「絵は自分のウンコのようなものだ」と思えたらどんどん排出つまり制作できるのかも知れない心臓とウンコではえらい違いだが死んで化石になればどちらも似たようなものではなかろうか

1991年イタリア・アルプスの氷河で5300年前(新石器時代)の男のミイラが発見された通称アイスマンだ昨年11月にあらためて解剖が行われその結果が今年の6月に一部発表されたそこで特に注目されたのはアイスマンの体そのものよりその胃の中身だった

人や物の価値は後世が決めるウンコだって貴重な学術資料にもなり得るし一世一代の絵だと力んでみても残るかどうかは後世が決めるということに違いはないということだ