葛飾北斎と伊藤若冲

「奇想の系譜」展が東京都美術館で開催中だまだ見ていないがぜひ行ってみたい展覧会だ学生の時(今から44年以上前)本で読み以来ずっと私の脳の片隅から消え去ることがなかった一つの絵画論としての辻惟雄「奇想の系譜」私の秘蔵書の一つだが本展はこの本の「視覚化」だイメージとしては本の方が強いが見ない理由はない

昨年(一昨年?)若冲展があったが大評判になり長蛇の列のおかげで見ることができなかった見に行った人からの賞賛を聞いたり図録を見せてもらいながら「若冲なんてそれほどのもんじゃない」と改めて感じた人気はマスコミが作り上げた虚像だ

そう言うからといっても私は若冲の批判者ではなくファンの1人である多くの人がその名を知らない頃から私には「これが若冲だ」と言う好きな絵があった「群鶏図」若冲にはそれ以上の絵はないところが先述の「若冲ブーム」があってあたかも若冲が日本絵画を代表するかのような錯覚が(一時ファンの間で)起きている私も若冲は好きであるが北斎と並べようなどとは思わない若冲狂いには悪いが「格が違う」。ولی、違っていいのであるそれが若冲を貶めることには必ずしもならないことが若冲たる所以だと理解できない人は「若冲ファン」を標榜するのをやめた方がいい

曾我蕭白も楽しみだ彼などある意味「国際作家」北斎を超えている彼らの天才性を見るということは私たち真面目人間には真似のできない凄さを体感すると同時にそれが「私たちと同じ」人間のしでかしたことを見る嬉しさを感じる時間ではないかと期待しているところ

風景画の試み

「風景」習作

今年は「風景画家」になるそれが目標ととりあえず宣言しておこう
مون、その前に「あけましておめでとうございます今年もよろしく」です

毎年何度かチャレンジするがいつも中途半端で挫折風景が問題なのではなく考え方がちゃらんぽらんだから。و、なんの反省もなく同じことを繰り返す繰り返すほど失敗データだけが積み重なり頭は失敗のカスだらけになる

「風景画家」はともかく私だけでなく現代のどの画家にとっても風景画は難しいそれは写真の視覚と戦わなければならないから写真の機構機能的レベルはすでに人間を遥かに超えているしかもそれが誰の手にもありそのレベルに慣れっこになっているどうやってそれと戦うのか?その戦略なしに迂闊に風景画など描けないから

البته البته、私たちの頭はまだ19世紀にあるから通常は普通の風景を上手に描いていれば(むしろその方が)十分に楽しい

そいつは誰だ?俺の中にいるのは

「ある男」習作

「ある男」は飛んだり跳んだり浮かんでみたり沈んでみたり時には指を組んでみたり自らか人によってかシェルターに入ったりするそして時々叫びタツマキを起こす死んでは新生を繰り返すこいつはいったい誰なのか