今年の最後は「めまい」で終わるのか?

HANA(水彩・部分)2011

個展を目前に控え忙しいのと体調不良とで最後のチャレンジが止まってしまった

忙しいのは仕方ないとして困っているのは「めまい」数日前の朝から急に始まった

布団を上げようとした瞬間天井がグルグルと回り出し布団の上に突っ伏してしまった「昨日無理はしなかったはずだが?」ととっさに回想したヘルニアのある首への負担が原因だと思ったのだすぐに治まったがふたたび体を起こしたらまたしても天井が回る

幸いその2回だけでその日は済んだが車の運転の時は緊張したひょっとした拍子にめまいが来たらどうしようと心配だったが何とか仕事は終えた頭痛はないが頭の中に圧力が感じられる血圧を測ると125-92上はともかく最低血圧が高すぎる普段は血圧優等生で100-70前後時々上が100以下になり低血圧ではないかと心配になるほどだからこの92はとても気になっためまいは今も時々起る(寝ていても)ネットで調べた限りでは良性で放っておいても数カ月以内に治るものらしいのだが

その日実家の弟から電話父の容体に重大変化かと緊張したがやっと地元に近い病院への転院の話だった(これまでは病院へ通うこと自体体力的にも大変な負担だった)これからのことについてもいろいろ話し合おうということになった父の具合も気になるし個展終了後なるべく早く青森に行かなければという気持が強くなった

田舎は医師も病院も限界に近いほど不足している(そのために一つひとつの病院が過密になり医師の負担は増し高齢の患者ばかりが溢れている)近くに転院出来たといっても車が無くては見舞い一つが大仕事になってしまう青森まで一人で車を運転し帰ってこなければならないそれ自体も大きな負担だが途中でめまいでもしたらどうしようと新たな不安がある今年は最後の最後まで落ち着かない年になりそうだ

3年ぶりの個展です

個展Dm

気楽な水彩スケッチ展以外では3年ぶりの個展を開催します毎年企画しながら2度もキャンセルしてしまった結果の3年ぶりその間制作しなかったわけではもちろんないがとても個展をする気分にはなれなかったのだここまで来てもまだ止めたい気分が半分あるあとの半分は自分への興味

「シェルターの男」は東日本大震災の前に制作されているシェルターの語から原発事故からのイメージが連想されてしまうが無関係である私の個人的日常的な感覚から生み出されたものであることはあらためて強調しておきたい

近年の大作では「叫ぶ男」(2008)「タツマキの男」(2009)「新生№5」(2010)と続き「シェルターの男」(2011.DMとは別の作品)と繋がっている描いているのは巨体の男(たぶん自分のこと)の肖像あるいは存在の在りようだと思っている

「叫ぶ男」では人間の「言葉」ではなくヒトの「声」として叫びたかったから描いたのだし「タツマキの男」では描く前も描きながらも自分の中に大タツマキが発生していた「新生」ではグロテスクとは何か?を自分自身の身体変化(老化を含め)を見つめて考えたそして「シェルター」

「シェルター」の第一の意味はもちろん「身を守るための外套・構造物」だ「自分は弱い生き物だ」という意識が前提になっているはずだ。اما、それでは巨体のグロテスクで暴力的な「男」のイメージと矛盾するのではないか?

日本の民話には「鬼・おに・オニ」という巨体の男・角が生え全身が赤かったり青かったりでそのうえ毛むくじゃらのグロテスクな姿であるが人畜の及ばぬ凶暴な恐るべきパワーの持ち主という「人格」が存在する幼い女の子をいけにえにする話は多いがその娘を自分の命より大事にする話も少なくはないそのあたりだけ見ればもしかして私が描いているのはオニなのではないかと実は自分でも感じてくる郷里である青森ネブタの造形も面白い視点を示してはくれる

اما、それは牽強付会というものだ私はネブタを念頭に置いて制作したわけではないし世界の民話を勉強してからアイデアをひねったわけでもないだいいちそんなところにちょいちょいと意味をなすりつけては私自身のメンツが立たない自分がオニなら(オニであるがゆえに)哀しいとの共感があるその共感において「新生」と繋がっているのである(美しい女性を私はオニと心の中で呼んでいるおそらく美白美肌は地球の反対側に棲む多くの犠牲の上に成り立っているのだから)私は自分の歴史の中で絵を描いている自分の存在史を描いている私が他の画家と少し毛色が違うのはきっとその辺に理由があるのだろうと最近思う

※美しい女性がオニなら私は何であるのか逆説的に惑うのである世界は悩ましい

Exhibition:at Gallery Keifuu/minami-kosigaya/ phone 0489-89-1899 /11am to 6pm Come on, and talk with me.

 

自転車に乗れたのはいつだったか?

ガーベラ(部分) F4 水彩 2011

最近自転車のニュースが増えているそれもマナーの悪さだけが特に取り上げられている感じだつい最近までエコだのクリーンだのと持ちあげていたのは誰だったのかもう忘れてしまっているらしい

事故が多くなったのは一つには乗る人が単純に増えたからだなのにそれに見合う施策がほぼ無いに等しかったからだマナーの悪い人は確かにいるだろう若者に特に批判が集中しているようだがおばちゃんたちのマナーの低さ(無知なのかずうずうしいだけなのかは分からないが)に較べればはるかにマシだと感じている。فقط、命の危険があるようなのはちょっと困る

自転車にも乗る以上は年齢に関わらず交通講習を義務付けまたはもっと積極的に奨励するなどの施策安全なレーンの確保などまず行政がやるべきことがたくさんあるのではないかお金が無い人員が足りないという言い訳はそのために人が死んだり怪我しても仕方ないと言っているに等しいのではないか

ふと自分がいつ自転車に乗れるようになったんだっけ?と考えた

思い出せば自動車を運転できるようになった時より自転車が乗れるようになった時の方がずっと感動的だったことを思いだしたそしてそのことが私の行動範囲を住んでいた地域をはるかに越えさせちょっとした冒険を与えてくれ想像もしなかった新しい風景を私に見せてくれた中学生の夏アルバイトして自分の自転車を買った8千円ぐらいだったような気がする1日200円で働いたがそのお金だけでは足りず残りは親が出してくれた

自転車の文化は日本には根付いていない自転車も自動車もそれ自体の良さを楽しむだけの豊かな気持ちを国民的に育ててこなかったからだそれらをただただ仕事の効率の為だけに使ってきた貧乏根性から未だに抜けられないこの国が高速鉄道から車窓の風景を奪ってしまっても一向に平気なのと根は一緒なのだろう 2011/11/12