
今日は13日の金曜日。キリスト教国では不吉な日らしいが、ユダヤ教のイスラエルではたぶん関係ないのだろう。イスラエルとハマスの戦い(装備等の差から考えれば “戦い” にならないだろう)に心が痛い。自分のかなりひどい腰痛も、鎮痛剤のおかげでだんだん歩けるようになってきた。気持ちに少しだけ余裕が出来て、この争いに目を向けている。
日本で、一般的に見る報道ではほぼ「ハマスが一方的に攻撃をしかけ」「イスラエルの民間人に多数の犠牲」「イスラエルには報復する権利がある。アメリカは武器も支援」などと報道されている。ガザからの視点報道もあるにはあるが、マイナーな扱い方だ。
「殴ったやつが悪い」のは確かだ。Але、なぜ殴ったのか、その理由を問わないのは論理的ではない。結果には必ず原因・理由がある。
ガザという、イスラエルが一方的に(今回の報道では “一方的” のオンパレードだ)作った、いわゆる「天井のない監獄」を、(日本も含む)世界が容認してきたことに本質的な問題があることは誰の目にも明らか。そこに生まれた子どもは、生まれた瞬間から終身刑を言い渡されたようなもの。イスラエルが勝手に作った壁の向こうへ一歩も出られないまま、一生をそこで終わらざるを得ない。
あまりに理不尽、とも見える。その状況を、国際社会は見て見ぬふりをし続けてきた。世界の「人権」管理者であるかのようにふるまうアメリカが、それを容認するのもダブルスタンダードと言わざるを得ない。中国の人権侵害を非難するアメリカだが、アメリカ自身の人権問題には眼をつぶったまま。
殴った理由の大部分はたぶんそこから生まれてくる。実際にはガザの人々が攻撃したわけではなく、その不満を吸収したハマスによるものだが、鬱積した人々の憤りがハマスへの支持になっていることは報道の通りだと思う。自分がガザに生まれていたら、と想像すれば「報復の権利」の前に「殴る権利」もありそうな気がしてくる。
戦争の原因は複合的だ。どれか一つの理由だけでは始まらない。第一次世界大戦も「サラエボの一発」などと形容されるけれど、それは一本のマッチに過ぎない。マッチを擦ればすぐ火が点くような状況がすでにそこにできていたからで、その状況がなぜできたのかと、いくつもの「なぜ」を追いかけなくては、「2発目、3発目」を防ぐことはできない。
「人の命は大切」と言いながら、なぜ銃の引き金を引くのか、あるいは引かざるを得ないのか。本音とタテマエ。パワーゲームの前には、人の命など何の意味もないことを、まざまざと見せつけられている。