
「カッシーニ・ギャップ」とは土星の輪が、初期にはリボンのような一つの帯だと考えられていたものを、17世紀の前半にイタリアのアマチュア天文学者のジョバンニ・カッシーニが、その輪には実は隙間(カッシーニ・ギャップ)があり、実際には数本のリングになっていることを発見したことをいう。
カッシーニにとって土星の輪が複数だと知ったのは、観測の結果だったが、それは「もっと詳しく知りたい」という情熱がもたらした現実だ。私にとって、結果としての現実が今、なのだろうか。
世界中で「テレビを見るなど、ぼうっとしている」時間は、集めると一年で一兆時間になるらしい。その時間をネットでつないだら創造的な時間になるのではないか、というような記事を読んだ。確かに、一兆時間という天文学的ともいえる時間が、無駄に流れてしまうならばいかにももったいない。もっともな提案だという気持ちになる。
1609年にケプラーが、太陽系の惑星が太陽を中心とした楕円軌道を描いているとした論文を発表したとき、それは当時の社会にとってどんな意味を持てたのだろうか。400年後の現在から見ればいかにも重要で、その後の天文学に偉大な貢献をしたことは間違いないが、当時の人々がそれを創造的だと評価できたかは疑問だ。仮に、もしもケプラーがその法則を発見する直前で亡くなったとしたら、ケプラーが考え、計算に没頭した時間は無駄な時間と呼ばれてしまうのだろうか。
「テレビを…」についてケプラーまで飛躍しすぎた。一兆時間をネットでつなげば凄いことが出来るかもしれないし、単なる一兆時間の烏合の衆で終わるかも知れない。ただ、みんなが「ぼうっとする」時間を捨てて一斉にネットにつながったら、確実に創造的な何かが抜け落ちてしまうことだけは間違いない。ヌードを描きながら、全く別のことが突然頭に浮かぶことだっていくらでもあるのだから。
下北半島・東通村、岩屋地区の風力発電の風車のスケッチ。津軽海峡を見下ろす台地状の山の上に、現在の日本で最も集中的に同目的の風車が立ち並んでいる地区だ。福島原発事故以来、急に脚光を浴び始めた「自然再生エネルギー」の象徴でもある。ここから南に十数キロ、そこには今や悪の象徴とされつつある、原発(Higashi-dori Nuclear power plant)がある。東通村はいわば「天使と悪魔の同居する村」だ。
先週ある本を読んだ。「森林飽和」(太田猛彦、2012.NHKブックス)。太田氏は、「自然は自然のままにしておくのが一番良いという考え方」を捨てるべきだと言う。里山の「大きな木を伐ってはならない」という考えを否定する。「日本の森林は既に飽和状態にあり、この飽和状態を放置すること自体が新たな自然?災害を招く」から。現在の感情的な自然志向の高まりに、ある意味で水を差すようにも見えるが、実際に山や海岸をスケッチしながら歩くと多くの点で納得がいく。
そのような巨視的歴史的な目でエネルギー問題を考えると、いきなり原発か自然エネルギーかの二者択一を迫ることの危険性が感じられる。「天使と悪魔の同居する村」は木を見て森を見ない、現代日本の思考の縮図とも言えるのかも知れない。