何を見ているのか-3

ボス「聖アントニウスの誘惑」のプロセスから

たとえばボス(レオナルド・ダ・ビンチとほぼ同時代ながら中世の幕を最高の形で引いた人と言っていいだろう)。20世紀のはじめシュルレアリストたちによって「再発見」(=賞賛)されたのは彼らがそれまで戦っていたアカデミックな絵画とのズレからではなかったか

ルネサンス以後に確立されたアカデミックな世界観から逃れ出る道を探していたシュルレアリストたちにこんな方法があったのかと「再発見」されたのだボスの絵も広く言えば油彩ではあるがその単純原始的な方法はイラストの手法の原点でもある

ボスの絵がなぜ今新しいかと言えば現代の絵画視覚がアカデミックな油彩表現からより単純なイラスト的表現に向かっているからだ人類は人工知能の支配下に置かれるのではないかという近い将来への不安を前に難しい職人的技術なしに誰でも描ける手法が人類の最後の表現にとって必要不可欠だと直感させるからであろうそう考える人も現実はこれまでの視覚の中に生きているそのズレが新しさを感じさせている

しかしボスの作品そのものは当然ながら「誰でも描ける」ものでないことは言うまでもない

 

絵の中の何を見ているのか-2

クリムト「公園」1910

見る人にとって自身が既に獲得しているかたちや色彩のカタログ?とのある程度のズレは興味や好奇心を抱かせズレの内容によって「好き・嫌い」などに分かれていくズレが大きければ時に衝撃となる

このオーバーラップは(意識はされなくても)言葉によっても同時になされている語彙の量はそれなりのハンディとなる例えば「紫」という語を知らなければ眼には見えてもそれを表現として使うことはできない「紫」という語は色の引き出しを開ける鍵(文字通りのキーワード)だからだ

かたちや色を考える時自然再現的なそれらとのズレを工夫することが単独のかたち色の工夫より重要ではないかと考える

 

絵の中の何を見ているのか

浮かぶ男 と Apple

Lögun og litur eru miðstöð sjónrænna upplýsinga。Svo það er bara eðlilegt að málverk setji hugvitssemi og rannsóknir á því。Það er „gildra af skynsemi“。

raunverulegt、Fólk sér aðeins lögun og lit sem „þannig líður það.“。Svo hvað ertu að skoða?、Mynd mín og minni、Með öðrum orðum, þú gætir verið að skoða spegilmyndina á sjálfum þér og „muninn“ á milli þess、Ég hef verið að hugsa nýlega。

Ég get ekki séð neitt sem finnst ekki skrýtið。Þegar frávikið vex verður tilfinningin skarpari、„Myndin“ birtist。Munurinn er aftur、Það virðist líka vera spurning um orð。