
造形とはこういうことだろうか。
綺麗な和菓子。上品な薄い衣を透かして見える、選び抜かれた名産地の粒あん。美しい菓子皿に添えられた、小さめの漆塗りの匙。晴明の窓から新緑の葉影が落ちている。
それが「造形」だとしたら、眠い。En、考えてみると確かにそういう面も否定はできない。En、なぜ眠い?
要するに「造形」が動詞なのか、名詞なのかの違いだろうか。求めているのは「動詞としての」造形。そうでなければ、絵画は美しい和菓子と同じ意味。上の絵は、まだ駄菓子だな。
造形とはこういうことだろうか。
綺麗な和菓子。上品な薄い衣を透かして見える、選び抜かれた名産地の粒あん。美しい菓子皿に添えられた、小さめの漆塗りの匙。晴明の窓から新緑の葉影が落ちている。
それが「造形」だとしたら、眠い。En、考えてみると確かにそういう面も否定はできない。En、なぜ眠い?
要するに「造形」が動詞なのか、名詞なのかの違いだろうか。求めているのは「動詞としての」造形。そうでなければ、絵画は美しい和菓子と同じ意味。上の絵は、まだ駄菓子だな。
東京大学の学生食堂(安田講堂地下)にあった、宇佐美圭司の大作(4×4m)を生協が捨ててしまった(廃棄処分)ということで、各方面から呆れられている。
この大作は、東大生協創立30周年記念ということで、生協自らが宇佐美氏に制作を依頼したものらしい。
大学構内の施設改修で食堂も移転することになり、作品をどうするかが当然議題の一つになった。Hins vegar、結局のところ所有者である、大学生協側が面倒くさくなってポイした、ということだ。移転や保存の方法について専門家に相談するでもなく、(密かに)廃棄したというやり方に彼らの美的価値観が表れている。「つまらない絵だ」と思っていた、ということだ。
しかも、「あの絵はどうした?」という学生、教職員らからの質問に、いい加減なウソを答えていたことも明らかになった。なんだかモリカケを巡る国会での政府答弁そっくりだなあと、その点でだけ、さすが東大だと納得した。
第5回カモメの会 展が今日から始まった。今日は陳列と、午後1時からの開場。雨の予報だったが、開場中は何とか降られずに済んだ。ラッキー。
出品者は目前のゴールテープをとりあえず切ったので、ホットするのも束の間、気がつくと自分の作品が急に心もとなくなってうろたえ始める。あげく、自信無くしてしまいました、どうしたらいいんでしょう、などと言い出す。
残念ながら、こういう場合、放っておくのが一番。ある意味ではつまらぬ自信などない方が良いし、人に褒めてもらって付く自信など、次の批評ですぐにぐらつくに決まっている。
個性的であることが最も大事。En、それは必ずしも風変わりな作風であることを意味しない。世の常識に惑わされず、「等身大の自身」であることが重要で、それが結果として世の常識とぴったり同じであるはずはない、というだけのこと。