飲食

「ホネ貝と西洋梨」 水彩 F4

メタボ予備軍との判定をきっかけに渡りに舟とウオーキングを始めたことは何度も書いた早朝ウォーキングが以外に気持ちよくそれが続けられた理由であることも書いた(急激に始めたせいで少し膝を痛め自重中)プラス面だけでなくこんなマイナス面もあるが足腰がしっかりしてきた実感もある

けれど「メタボ予備軍からの脱却」という目標から考えればまずは「体重を減らす」ことが最優先課題だ運動は健康には有効であるものの体重減少という点ではあまり有効ではない本命は「カロリー制限」である

前提条件として自分の「適正体重」というものをまずは知ることから多くの人にとってはすでに常識なのだろうが自分としてはまともに向き合ってこなかったから基礎知識が全然足りないことを感じた。就我而言、適正体重は現状から-10kg。但、それはすでに「絶望的」

私は「適正体重」の方を諦めることにしとりあえず2ヶ月で―2kgこれならたやすく達成できそうだ(と最初は思った)目標体重と仕事の内容(肉体的か事務的かなど)から必要カロリーを計算する。就我而言、体重1kgあたり25~30kcalとしてそれからここ数日に実際に摂ったカロリーを計算してみると「恐ろしい」現実が・・・気を取り直して目標カロリーを「3食+おやつ」に振り分け実際のメニューとカロリー表とを試算してみるとにわかにメニュー」が「仮想現実」感を帯びてくる「小太り」のままでもいい理由を探しはじめる…

「時代」に乗り遅れる

「Hurry up a little bit(少し急いで)」水彩 F4

先日のブログに載せた絵を描いたとき途中で何枚か写真を撮っておいたのでそれをつないでみたここ半年は「動画」とその編集で頭いっぱいなのでとにかく途中経過はなるべく撮っておく

ウォーキング中イヤホンからの「乗り遅れない」という語が耳に引っかかったある業者が「時代の波に乗り遅れないように○○をする」という普通なら聞き流すような流れだったと思うが「時代の波ってその波の中にいたら分かるものか」といういつもの反発心がことさらにその言葉を「保存」してしまったらしい

もしかして私がいま動画(編集)で頭を悩ましていることも「時代の波」に乗るためなんだろうか?私自身の絵画史では「絵画の時代」はすでに終わっている何かの文章にそう書いた記憶もあるけれど今も自分は絵を描いている絵画の時代はすでに閉じたのに?それは「絵を描くことは私の宿命」だと感じているからだどんなに時代遅れになろうと宿命ならば仕方ないそう考えているからだーそれならなぜいま動画なのか

ひとつにはパソコンが手軽になり「動く絵=動画」が自分にも手の届きそうなところにある(?)からだ世は動画で溢れているTV会社など専門業者でなければ手の届かなかった映像の世界を若い人たちはスマホを使ってインスタグラムYouTubeなど日記を書くように気安く作っている油絵具じゃなくたって水彩絵の具じゃなくたって自分たちの新しい絵の具で絵を描くよそういわれているような気がするそれなら私も新しい道具で絵を描いてみたい。但、そう思うこと自体時代の波に乗り遅れまいという心理なのかいまは判断できない(現状ではまだ全然ダメだが)もう少し頑張れば私も「新しい絵の具」でまた新しい自分の絵を描けるのではないかとなんとか希望をつないでいる

「失敗」の「成果」

「少し急ぐ」 水彩・F4   2020.12.12

「失敗」と「成功」は正反対の概念のように思える一見両立しないコインの表裏のようだがよく見れば「表」と「裏」はわずかな厚みの差だけ「失敗」と「成果」ならどうだろう「成果」は失敗からも成功からも得ることができる。就我而言、特に失敗から学ぶことの方がこれまでは大きかったように思う

失敗から多くを学べるようなケースもあれば成功はしたものの僥倖的な成功体験が次の大失敗につながる事例を私たちは日常的歴史的に経験してきた(している)「失敗は成功のもと」はまだまだ死語ではない

「なぜ失敗した(する)のか」冷静で粘り強い分析はよく言われる「プチ成功体験」よりある意味でかなり積極的な姿勢だと思う失敗から目を背けず失敗という他人目線の批評を越えて未来を肯定する指向性をもっているからだそもそも行動しなければ失敗さえできないそのうえでそういう指向をするとき「失敗」はすでにひとつの立派な「成果」だと言ってよい

私たち(日本人)は失敗をつい「自分の力の無さ」「人に迷惑をかけた」などと卑下しがちで失敗を「怖れ」「隠し」それゆえにことさら他人の失敗を非難したくなる国民性を持っているようだそうした「失敗の個人化」ではなく「失敗こそ共有財産」と認識し多くの人の意見の中でその分析をし未来に繋げていく粘り強い冷静さを持ちたいそのような国民性を育てるためには何が必要か私たちの国にはこれまでそうした論理性が育たず実際ほとんど考えてこなかったコロナ禍の中であらためてそのことを感じる日々