
“アイデア” は “芸術” に必要な要素ではあっても、イコールで結ばれることには違和感を覚える人がいるのが当然だと思っていましたが、現実はすでに「違和感など無い」ようなんです。
「Art 」という語が本来持っていた、「技術・職人」という語感からかなり遠ざかってしまっていますが、ここへきて発想とかアイデアというものが、素材やテクニックも含めて一層大きく切り離されてきたと感じています。
単純な話、「こんな絵を描きたい」というアイデアを「言葉にして」生成AIに話しかけると、たとえば油絵の知識も技術も、素材・材料さえ無しに、数分後には「作品」がパソコンの画面に生まれて(生成されて)きます。絵そのものがまったく描けなくても、鑑賞力など一切なくても構わない。そうやって “生まれた” 作品にも絵画としての「著作権」が生じるというのですから、ストレートに「アイデア≒芸術」ということになったと言っていいでしょう。ここでは「言葉」が「絵画」の著作権を作っていることに、わたし自身は違和感があります。
“芸術家” というのは、少なくともわたしにとっては特別な存在“でした” 。「でした」と過去形で言わざるを得ないというのも心情的にはかなり辛いのですが、おそらくあと数年もすれば、「言葉が話せる人=芸術家」という環境になると想像します。わたしだけでなく、多くの人にとっても“芸術家” は今でも憧れの一つでしょう。それが何の知識も経験もなく、子どもでも使えるアプリケーションだけで、堂々と「著作権」のある「作品」を持つ「作家」になれるんですから、誰でも一度はなりたいですよね。たった数分で作品が出来、しかもお金も時間もかからず、身体的にも疲労する間さえありません。
「芸術家」にとって、「アイデア」はかつては努力と才能を絞り出した、それ自体ひとつの “結晶” のようなものでした。長い鍛錬と研究で培われた技術がアイデアに繊細な肉付けをし、さらに幸運の女神が舞い降りて、初めて芸術作品が成り立つようなものでした。そうやって育ってきた稀有の「天才」に、「誰でもなれる」ようにするために数世紀にわたって様々な発想法が考えられ、コンピューターの発達がそれを加速し、とうとう生成AIに到達しました。
あなたも、AIを手にしたたった今から堂々とした「芸術家」になれます(もしかしたら、すでに「芸術家」でしょうか)。あなたのまだ小さいお子さんもすでに天才芸術家です。auðvitað、お隣も、その隣も一緒なんですが。町内全部、市全部、県内、国内だけでなく、そう世界中「天才」だらけの世になったんです。DNAも師匠も切磋琢磨する仲間も不要です。アルキメデスのような “数分野かけもち” の天才もそこら中にいます。なんと喜ばしい世の中になったんでしょうか!!
できるだけ多く、深いアイデアを生み出すための方法論も、デカルトなど多くの天才たちによって考えられ、工夫されてきました。彼らの方法論もまた名著として伝えられてきました。画期的な、新しい発想をすること自体がとても貴重で難しかったからです。
でも、そんなのももう読む必要なくなったんですね。たぶん喜ばしいことです。今は「コミュニケーション」の時代。「独創的」より「皆と同じ」「共感できる」発想が尊ばれる環境です。“他にはない” というアイデア自体が不要になってきたってことなんでしょうね。