大本営発表

08/04hlaðið upp á。Vinsamlegast kíktu

「マイナーな気分になる情報は出来るだけ少なくアップする情報は可能な限りオーバーに」という情報発信の仕方を「大本営発表」と太平洋戦争での日本軍の報道への皮肉を込めて呼ぶようですウクライナ戦争でのロシア政府軍関係からの様々な報道を日本はじめいわゆる西側の人々はそう呼んで嘲笑っているようです

En、これは当時の日本軍だけでなく世界中どこの国でも今でもやっています(おそらくこれからも)スポーツの世界でも政治の世界でもおよそ「対立」のあるところなら時に応じてリップサービスや中傷にかたち変えたりしながらあらゆる場所次元で起こることがむしろ普通だと考えておくことが必要だと思います

わたしたちも気分が良くない時はできるだけ嫌なことは聞きたくないものですたとえそれが事実であるとしても悪いことが3つも4つも重なることは避けたいし気分転換のために耳障りの良いニュースだけ選択したりあえて笑いの要素を探したりしますそれが自然な気持であり逆に言えばそこに付け込まれる“油断” が生まれますそれが「大本営発表」の本質です

YouTubeを作っていても作る労力と実際の視聴数とはまったく比例しません。og、人にそのことを伝えるときはうまくいった時より失敗の話の方をつい選びがちですその方が聞く方が上位にあるという心理が働いて気分よく聞き流せると思うからですがこれもちいさな“逆” 「大本営発表」の類でしょう大事なニュースなのに知らされなかったり重いからとニュースそのものに耳を塞いでくれたほうが都合いい人たちも居ないわけではありません程度問題ですがどんな情報にも「大本営発表かも」のチェックマークをつけておく必要があると「終戦の日」が近づく今日考えています明日は広島原爆の日

花はどこへ行った

「海辺にて」水彩(制作中)

BBC記者のウクライナ戦争最前線ウクライナ側からの現地取材のワンシーン兵士の傍に行きつくまでほんの少しの時間ですが周囲の風景もカメラの揺れの中視界にはいってきます腰くらいの高さでしょうかわりに背の高い草が畑の中の小さな道のわきにずっと生えていてそこに白い花がたくさん咲いて微風にゆらゆら揺れていますその花の下で兵士は腹這いになって銃を連射しているのです映像を見た瞬間思わず「花はどこへ行った」のメロディーを思い出しました

「花はどこへ行った」はベトナム戦争の反戦歌として当時は世界中の若者たちに歌われましたこの曲を作ったピート・シーガーはロシアの作家ショーロホフの「静かなドン」の一節に出てくるウクライナの民謡に触発されたのだそうです両国に深く関わるこの歌こそいまロシアとウクライナの若者たちに最も歌って欲しい曲かもしれません
 この曲は戦争の当事者であるアメリカの若い人たちのあいだであっという間に広まりその広がりの中でアメリカの「敗戦」として20年にわたるベトナム戦争は終結したのでした

アメリカと同じようにロシアから反戦の意識が広がり戦争の終結へと向かうことができるでしょうかぜひそうあって欲しいものですが今のロシアを見る限り反戦意識の高まりから終結へ至る道すじは想像もできませんどちらかがギブアップしない限り、1年や2年で終わるとは思えない状況です
 ヨーロッパのの歴史をサラッと見ただけでも「30年戦争」とか「100年戦争」などの文字が見えてきます昨年アメリカが撤退して一応の結末を出したばかりのアフガン紛争も20年かかりましたベトナム戦争も20年ですシリア内戦も10年以上経って現在も続いていますこの戦争もそのくらい長期にわたる可能性があると覚悟しておく必要があるかもしれません

たくさんの命とドブに捨てるような莫大なお金それをこれからの人間たちのために遣ったならば・・と誰もが思っているはずなのにその思いその花はなぜいつまでも待つ人のところへ届かないのでしょうか

heilla

einn daginn、Í Engakuji hofinu (vatnslitamynd)

Skýjað í fyrsta sinn í nokkurn tíma。Það er að mestu sólskin undanfarna viku、Það var heitur dagur alla daga。Hvað með það?。Þó ég sé búin að venjast hitanum mikið.、Um kvöldið var ég þegar orðinn þreyttur、Ég get ekki unnið eða lært á kvöldin.。Svona dagar héldu áfram。Það er dögun í dag、Spáð var rigningu、Eins og við var að búast var þetta ekki „misst skot“ heldur „tómt fall“.。Sem sagt、Ég er ánægður þó það sé skýjað。

Það sem mér finnst aðlaðandi er、Er það ennþá "ástríða"?。Allt er í lagi.、„Ástríðufullur“ frekar en vélrænn。þegar þú finnur fyrir því、Mér líður eins og ég sé að verða upphituð af þessari aura.。það gefur mér styrk。

Ef það er í mér og því sem ég geri、hvernig á að gera það aðlaðandi、Það þarf líklega ekki að hugsa um það.。ertu með ástríðu、Hversu ástríðufullur ertu?、Kannski er allt sem þú þarft að gera er að hugleiða það heiðarlega í þínu eigin hjarta.。