人物スケッチ

人物スケッチ

現代の絵画を大きく分ければまず具象と抽象に分けられる(ごく一般論として)具象をさらに人物画風景画静物画の3つのジャンルに分けることもできる教室の人たちはどうやら人物を描くのが好きらしい

ひとくちに人物画と言っても内容や描きかたは作者ごとにかなり異なるまず対象人物の個性を描写することに興味があるタイプもうひとつは“人間”という意味の人形(ひとがた)として描くタイプの二つがあるように思う前者のタイプに描写力に自信のある人が多く後者にはロマンチックな心情表現を好む人が多いような気がする描かれた人物がどれも同じ顔に見える絵は後者のタイプだと思っていい

人物スケッチでは皆がモデルさんに集中してシーンとするそれ自体貴重で嬉しい時間だが疑問に思うのはそのあとのことモデルさん以外の人物をほとんど描く人がいないのをいつも不思議に感じるモデルさんをスケッチすることで人物画のノウハウを得それで本当に描きたい人を描きたいように描くのが目的のはずだがどうもそうとは感じられないのであるあの集中力はいったいどこから湧いてくるのだろうか

「人物(を描くの)は難しい」とよく言われる確かにそうだけれどでは花や風景は簡単かといえばそんなこともないだろう草花の世話をよくする人は説得力のある花が描けるしよく知った土地は同じように良く描けるとすれば毎日嫌というほど人間を見ているわたしたちに人物画が描けないはずはないはずであるなのに…幼い子どもにとってはお母さんお父さんがダントツの題材である花はともかく風景や静物などに見向きもしないそれと同じような気持で子どもさんお孫さんを描いてみたらどうだろうかと思うのだが

解像度を上げる

若い人を描く(水彩)

カメラやモニターなど視覚機器には「解像度」という用語がある簡単に言えば画面の密度高いほうが画面鮮明とおおざっぱにイメージすればよい解像度を上げれば画面はきれいで滑らかになるがそのぶん他の機能に負荷がかかるのでなんでもかんでも解像度を上げればいいというわけではない

Toda、ここでのそれは(自分の)「頭の解像度」もう少し上げたいなあとそのぶん他に多少のしわ寄せがきてもやむを得ない

これまで「低解像度」で過ごしてきてもべつだん不都合を感じなかったそれはたぶん特に何も求めてこなかったことの裏返しのんのんと自己満足に浸ってきたということになるのだろうなにか具体的なことを達成しようとすればある程度きちんとした理解が必要になるたんに流れを理解するだけでなく実際にテストし失敗を検証する場合もあるだろうそれらのひとつひとつが不鮮明では結果にも確信が持てなくなるのは当然だ 

そこまで構えなくても一つ一つピンと理解していきたいものだなあという願望(希望)がある最近視力が弱くなってきたことと反比例の感覚があるのかもしれない「こんなにぼんやりしているのを今まで見えた気でいたなんて怖いな」

無題

今日は篭を描いていた (制作中左の筆は見せかけだけ)

今日は水彩で篭を描き撮影の練習もしてみた絵を描くのはいいとして撮影などは苦手だカメラを使う割にはカメラそのものにあまり興味がなくしたがって知識も薄いいい加減に使うから結果もそれなりだから興味が湧かない・・・の悪いループにはまり込んでいる自分にとってカメラを使うことは必須なのだから興味云々ではなく知識・体験を得ることも必然なはずなのにそうしてこなかった逃げていたのだ

いまさらではあるが日本人の平均寿命からみてこの先まだ10年は生きる可能性があるその10年のうち何年かけたらちゃんとした撮影知識が身につくかは心もとないがやった方がたぶん楽しく過ごせるような気がしてきた本当にいまさらだ尻に火が付いていることにさえ気づかずそれが消え焼けぼっくいも過ぎて灰になりかかってやっと気がつくこの鈍さ「気づくのが遅すぎますよ」とある人に言われてからでも20年も経っている

撮影が苦手(特に制作中の)なのは一つには「描き方をカメラに合わせる」からだ写真では紙をテーブルに貼り付けてあるカメラが固定されているからそれに合わせているわけだ普段はこんなことしない紙は上下左右その時々で描きやすい方に傾け回転させながら描く水平にしたり立てかけたりもする紙を固定するだけでまるで磔(はりつけ)台上の罪人にされたような気分になる

普通は2~3台のカメラで撮影しその時々でいいアングルのカットを使うものらしいけれどわたしは1台しか持っていない(スマホも入れれば2台?)しなにより狭くてそんなスペースがないなどという泣き言はどこにも通用しない―必要なら何としてでも確保せよ―確かに仰せの通りでございますわたしが悪うございました
 けれどまあ撮影がうまくできなくたってとりあえず1枚描くきっかけにはなったじゃないというところでチョンチョン