з іншого боку、99,99%の人の中には、むしろ正反対に欲望・煩悩に忠実であろうとする人もいるのではないか。「人目を欺く」ことを目的にどんどん先鋭化させていく、そんな方向性。その行きつく先はどんな世界なんだろう。Що це таке、わたしには幼虫が自分を羽化させて、蝶になる毛虫の姿が重なってくる。毛虫がその時点での「自分」だとすると、やっぱりそれまでの自分を捨てて-本当の自分になっているんじゃないんだろうか。
自分は朝3時に起きて身の回りのことを始める。億劫でないことは一度もない(=億劫だ)が、あとで考えるとやはりそれが良かったと思えるからそうする。その時、もう少し寝ていてもいい(自由)が、あとで残念に思う。毎日の日課が決まっている。何をするか考えなくていい(思考からの自由)。Меню та віджети、自分がどういう存在なのか、自分とは何なのか、大きな時間を自由に遣う事ができる、とも。
Кінець минулого місяця、Я спробував використовувати "картопляні чіпси" як мотив у своєму класі акварелі (я вже писав про навколишню область у цьому блозі)。З попередніх "традиційних мотивів живопису", раптом картопляні чіпси、Студенти будуть дурними、Навіть я、Зв'язок між зображеннями, які я намалював, використовуючи попередні мотиви та картопляні чіпси、Я думав, що мені потрібно визначити та підтвердити、実施の前に(iPadで)自分でいくつか描いてみた。そうして、世の中はモチーフだらけ、というか、モチーフの中に住んでいることにあらためて気がついた。
共有するにはまず写真か文章(手紙)が必要だった。絵を描ける人ならそれにもう一つ「スケッチ」という武器がある。Але、多くの人にとって、写真やスケッチの90%以上は記録のためであったと思う。Меню та віджети、スケッチも絵の一つであるという認識はあっても、頭のどこかに「それは(本格的な)絵」のための、あくまでメモのような次元をこえるものではないというハードルを設けていた。 ―「ポテトチップス」などは、そういう意味での記録的興味の対象ですらなかった。そこらじゅうにあふれ過ぎていて、あえて“記録する価値”が見出せなかったからである。それに「安っぽく」見えた。просто、いかにも人工的、現代的な商品という外観は、ポップアートを持ち出すまでもなく、自分の中でも「これらを抵抗なく描いたら、そこから(自分の)新しい絵が始まるかもしれない」とは思っていた。9月に「青いカモメ展」が終わり、生徒さんの中にも、何か新しいことをやってみたいという気持ちが湧いてきていたところだったようで、「今がポテトチップスだ」―ちょうどいいタイミングで始める事ができたのだった。