
楽しそうだ。絵の中の男女、ではなく作者が。力むこともなく、さらっと、まるで口笛を吹きながら、「描き終わったら何を食おうかな」とでも考えながら描いているかのようだ。手慣れた仕事、1日に何枚も似たような絵を描き、ごく自然に一枚一枚が微妙に変化していく。描きながら、それもまた楽しんでいる。
買うお客も、こんな、今なら国宝級のこの絵皿に、隣の店で買った魚をそのまま載せていく。手軽さが楽しさだ。力まずお手軽に。およそ2400年前も今も真実は変わらない。2016/9/20
来年開催予定の、行政がらみのアートイベントに参加している。進行するにつれ、だんだん気持ちが沈んできた。何だかアートに似てるけど違う仕事をしている、という違和感が拭い去れない。当事者の1人なのだからどんどん意見を出して、自分の思う方へ変えていけば?どんな場でも通じる正論のようだが、現実は違う。
まず、面白くなければやめる、という発想がない。一度でも会合を持てばもうゴールまで行かなければならない。行政というのはそうなっているらしい。ゴールも予算も会合前にほぼ決定し、担当人員も決め、そこまでのコースも概略決める。それからアーティストに呼びかけるので、アーティストの意見は時によってはちゃぶ台返しになる。這就是為什麼、現実的に求められているのは方向性そのものへの意見ではなく(あっても良いが、その場合は不参加になるだろう)、経験者としての技術的な意見にほぼ限られている。
もちろんイベントを成功させたいという気持ちは行政も含め、全員が持っている。但、誰のために?何をもって成功とするか?という最も基本的な部分の討論にかける時間が(企画決定前に。そのあとも)少なすぎる。そこが曖昧なまま、極めて事務的にタイムテーブルが出来(印刷物の都合とかが物理的に挿入される)、技術的な検討に入る。アーティストの参加が求められているのはその段階からであり、発想の斬新さ、ユニークさ、経験などはその部分の肉付けとしての意味を持たされるだけ。違和感の大部分はそんなところにある。
しかし、一方でアート・イベントなどは行政サービスのソフトの一環であり、市民生活に不可欠な部分をしっかりこなすことが最優先なのは当然だ。予算も人員も時間も限られているのも当然だ。作家の側も忙しい。中途半端な違和感は誰もが持っているが、それを持って行く先がない。
全員が善意で動く。参加している仲間をお互いに気遣う。そして次第に本質から遠ざかり、自己満足のこじんまりしたイベントになる。善意も努力も大部分は無駄になる。これまで私自身が何度か経験したパターンなのに、どうしてまた参加してしまったのだろう。しっかりした提案ができる自信でもあったのか?「最も基本的な部分の討論にかける時間が少なすぎる」のは、他ならぬ自分自身の反省でもあった。2016/9/18
相關昨天。對於“努力工作”。我認為,可以說,努力工作=努力、一定有什麼目的,與它相稱的在那裡。沒有目的,盡我所能為無意義、但通常,我認為是不可能的、世界上沒有一定的情況下、這似乎還有而是日本Dokoroka至少意外普通人。
隨處可見後的口號是“努力吧的日本”,“努力吧的東北大東的”日本大地震。一會兒在一個地方,不再知道什麼是“我盡我所能反對什麼之後、聲音是掛在那裡被稱為辣“、我不知從哪兒聽說。什麼是如此、我以為。每一次執導的相機、和關心人民的歡呼和“我會盡我所能。”、這將是人們不得不多,揮舞著他的手笑著甚至要勇敢。不僅東北、熊本啊、廣島是啊、其他人為災害、無論自然災害、必須有很多受害者在重複同樣的想法不是一點點。
Asobuko是在樂呵呵地外的好孩子。在家裡擔心家長閱讀一本書Oiko。一下子就罵!“剛才已經在外面玩,”在某些時候的習慣,會來、“Daredare's'm顯然好讀一本書在家裡”,並以羨慕、它講兒童諷刺和。這是自私的動物我父、孩子是不是這樣貿然的反對,因為他們清楚地知道。它更是一個孩子是一個成人。
直到孩子離開父母、你會被要求到數万次“盡我所能”。當然,即使成年人、雖然它繼續說,直到身體是灰。“堅持住”是一個太方便了字。雖然他問候的次序只有光的含義,當你把出到嘴、當它被認為扭轉沉重的心情吞下後面的話“Tatte說出這樣的話”和(我正在努力的另一只眼睛全是我自己)是、我還希望這樣應該經常體驗、我會用。
“艱苦奮鬥”是、總是強一些“耐心”對心臟的內部。艱苦的工作是針對反向(邪)、另外一篇文章,也成為黑字節的大學生(兼職)的溫床、我讀的地方。在“祝你好運”,以東京奧運會的未來的聲音必須做大。獨自至少自己、或者沒有這個詞來代替它不會使、尋找一個。2016/9/17