リンク (hyperlink)

Aさんの折り紙お年玉袋(模様省略)

リンクする繋がるそっちの方のリンクいま編集中のスケッチ・ビデオでリンクについて随分勉強になった要するに随分苦しんだ(でいる)という意味だが
 たいていのビデオでは映像と音声がくっついている「リンクしている」のだが編集ではこれを切り離して使うことがままある映像の一部だけ切り取ったり別の音楽をくっつけたりなど基本的には切り離されたそれぞれ(クリップという)は別個のものとして扱うことができる
 

ところがいったん切れたリンクがもとの線上に戻されたとき離れた場所にありながら再リンクすることがあるとは知らなかった再リンクすると切り張りした細切れのクリップがまだら模様に編集線上に紛れ込んでしまい一つを削除すると遠く離れた一見見えないリンク相手も同時に消失してしまう編集画面に再リンクのマークが出ていたのを「見たことないマークだけど何だろう」とは思ったがその先の追求をおざなりにしたのが良くなかった

 10秒の動画でもたとえば1秒30コマ(コマ=細切れのカット=写真を何枚並べて1秒にするかということ)なら、 10(秒)×30コマ=300 個のコマ(写真)が一直線上に並ぶことになる(それを連続的に見せるので人間の目には動いているように見える)いまは1秒60コマに設定しているから、600枚の写真がズラーっと並ぶことになる(微妙に異なる写真が600枚も並んだら、1枚ごとの微細な変化など人間の目では判別できないし現実的にも不便なので実際にはベタッとした単純な色面で表示される)
 編集中の動画は完成間近でおよそ25分だが編集前は約90分だから計算上映像だけでおよそ323万コマ(枚の写真)を扱うことになる映像と音声とナレーションがあるから空白コマも含めると1本の動画で100万個近いコマを切ったり貼ったりしていることになる(実際には2台のカメラを使っているから、200万コマ)その中の数百コマ単位の「まだら」のリンクを『無計画に』移動切り貼り削除を繰り返したらどうなるかメチャクチャになるのは当然だ
 編集画面ではクリップのすべてを一目で見渡すことなどできないから(可能ではあるがどれがどれか判別できないほど小さく表示される)それが消滅したりすることに気がつかない「消した憶えはないがなあ」とボヤきつつまた別のクリップのリンクを切ってそこに穴埋めをする(問題行為の上塗り!)そんな処理を数十回(数百回?)繰り返したおかげで切り貼りだらけでどこが元なのか判然としない奇怪な映像データに積みあがってしまった(映像を流すと普通には見えるが)

修整は単純に無駄な時間でありとても大きな負担だが一方で「これはまるで人間の社会のようだ」とも思えてきた切ったはずの縁の先がどこかで繋がってまた自分に還ってくる切った繋いだの痕跡が必ずどこかに残っていてそこで別の縁で繋がった誰かに引っ付く自覚できない縁が見知らぬ場所で生まれている―まさに社会―そうかこんなふうに物事を見るべきなんだな―考えてみれば人間の感情や嗜好などとは無縁に見えるデジタルの世界もそれを作ったのが人間である以上人間の痕跡が残らないはずはないどころかむしろ人間(社会)をモデルにしか発想できないはずなのだ(鳶の発想だのメダカの発想なんて現実的に無理だろ?)と気がついた今回はビデオ編集しながらずいぶん社会学習を学ぶ場になりました

3つのデビュー

「どこかで見た街」 フェルトペン

今年2022年もあと3日今さらじたばたしたって始まらないが終えたいものはいくつかあるいくつか?いやたくさんある夏休みが終わる前日目の前の宿題の山を前に母親のせいにしている小学生のような気分だ終えたいが終わりそうもない

終わらないのとは逆に始まったこともある我が家では今年3つのデビューを果たし(そう)たひとつは息子の社会人デビューいろいろ苦労したが何とか楽しそうな(?)会社に就職まあなんとかやれているらしい二つ目はとうとう妻のスマホデビューといっても(今日現在)まだ手に載せて撫で撫でしているだけ何一つできないがまあデビューということにしておこう

3つめはわたしのYouTubeデビュー噓でしょうと言われると困るが(実際のデビューは昨年9月だから)本気デビューは今年からということで妻の分と平均すれば?3つのデビューと言っていいんじゃないかな?

先日息子に初めて3Dプリンターが動いているところを見せてもらった出来上がった製品?も見たがなかなか精巧なものだ。10年後には小学生の授業でも普通に使うようになると彼は言ったがそれまでこの国が持つかどうか心もとない限りだもちろん安全保障の問題などではなく頭脳の方の問題で岸田政権を見てごらん大臣デビューの連中が次々と更迭そして防衛予算43兆円?バッキャじゃなかろうかそれに野党も賛成なんかしちゃって世界の中での日本の頭脳の老化ぶりが凄まじいがそれを維持(支持ではなく)する国民の認知症レベルや如何ああ来年がすでに思いやられる

ハンディ

「飛ぶ男」

「ハンディ」と言えば「便利」という意味が思い浮かぶが今日のハンディは「ハンディキャップ(handicap)」不利な条件とか身体障害(者)のこと

ハンディキャップのある人に対する社会的なケアは理想からはまだまだ遠いとはいえ日本だけに限って言えば10年前、30年前、50年前、100年前と比べて全体としては前進していることは確かだろう。但、それは政治家のおかげではない確かに制度を法律として決めるのは議員だけれどそうしないと当選させないという民意の圧力のおかげだ

わたしも実はその民意の圧力のおかげを蒙っている一人障害の一番軽いクラスだから当然利用できる範囲もそれほど広くはないが、100 km以上の鉄道利用について基本運賃の50% の割引がある(あっても利用できる人の体力の方が…)ただし今般のような政府がかりの「(行け行け)go to」キャンペーンのような場合はその対象にならないことが多いあくまで日常の範囲に限られるそこにはハンディキャップに対する「公平性」の圧力がかかっているからである
 「公平性」は現代社会の「正義」である何者もこれを曲げることはできない大原則であって曲げるためにはやむを得ないと思われる「ハンディキャップ」か「特権」が要る「正義は厳しい」のだが人もそうである必要はない
 日本中に子どもが溢れていたころは年齢の離れた子も近い子も(ときには大人も)一緒になって遊んでいたそこではハンディキャップがむしろ「公平性の保証」だった中学生からまだ入学前の幼児までが同じゲームを一緒に楽しむためには不可欠な考え方だとさえ思われていた審判員などいない「遊び」のなかではどこの空き地でも年長の子が知恵を絞って上手に一人一人にハンディ(キャップ)を与えたものだったそうやって自然に人間観察の眼を養うことができた

社会の中で制度としてのケアは確かに前進してきた一方で少子化が進み同世代でさえ一緒に遊ぶ機会がどんどん減っている公平性の理念に縛られ弾力性が失われてきているように見えるいやいやこういう言い方は危ないすぐ統一教会か自民党あたりに利用されそうだ先日電車内で内部障害があることを示す「ハート・プラス・マーク」をリュックに下げた少女が障害者優先席にいるのを見かけた世界中の子どもの寝顔を知っているサンタさんにハンディのある子にどんなプレゼントをするのか聞いてみたいものだ