藤澤伸介個展②:作為畫家的他

①個展案内状地図まで手描きすることも多い
②四角の画面でないからこそ視覚も躍動する

 

③紙を切る前に色を塗っているそこがすごいところ

先日紹介した「藤澤伸介個展」への追加前回のブログでは「画家としての藤沢伸介」にはスペースの都合で触れなかったがわたしだけでなく多くの絵を描く人にとって示唆に富むと思い以前からそのことについて書く必要を感じていた

①彼の個展案内状はいつも手描きふうだ地図も手描きであることの方が多いたくさんの画家からたくさんの個展案内状を頂くが描くのが仕事であり描くのが何より好きなはずの画家たちからのこのようなものはほとんどない(わたしがする場合も含めて)「絵を描くのが好きだよ楽しいよ」と案内状で最も大切な内容をこれ一枚できっちり示している読むのではなく見る案内状でありまず第一歩からして絵画的だ

②絵はキャンバスに描くものと思いこんでいる人はさすがにもういないだろうが浜辺の砂に描いた絵だって空中に指先で描いた絵だって絵なのだからこれは当然過ぎるくらい歴然とした「絵画」形式。但、そういう理屈は置いといてこの一見「子どもの切り紙」ふうの「見せ方」がじつは彼の隠された自信タダ者じゃないとわたしは感じる「現代絵画」はよく解らないと多くの画家や評論家たちでさえ内心は感じていると思うけれどこの簡潔な表現そのものがまさにそれではないだろうか画廊を出て一歩街へ出てみるとそれがわかる

③(文才があれば)この絵一枚で一片の小説が書けるハズここには彼の作家としてのこれまでの人生が(軽々しく言ってはいけない言葉だと思うけど)詰まっている中央のカエルに描かれた色や線はカエルのかたちにカッティングされる前に施されているつまりカエルのかたちになるかどうかすら分からない時点で塗られた色線だそれを最終的にカッティングしてこんなかたちに「なりました」って偶然と必然を一瞬で融合させるその凄さがわたしの想像を超えるんですそしてそれこそ「絵というもの」だとわたしの胸は震えるんです

藤澤伸介展:藝術家和工具之間的深厚關係

從個展場地來看
從展出的作品來看:看看如何剪兩張紙
從展出的作品來看:而不是追踪形狀的“剪紙”、切割與繪圖的融合

拿著菜刀改變你的性格、擁有方向盤(駕駛)會改變你的性格、有時它會作為半開玩笑的故事掛在嘴角。但、我們永遠是主體(優越)、因為我被教育要根據自己的意願使用事物和手段(低階)。、最多也就是笑級別以上的待遇。

但當我還是個孩子的時候、當我有剪刀時,我想把一切都剪掉、大家不都有過用鏟子到處挖洞的經歷嗎?。我沒有拿出剪刀,因為我想剪、我想知道我是否想挖一個洞(沒用),因為我有鏟子。

許多藝術家(他們不喜歡被這樣稱呼)、也是關於那些一輩子不放過童年的這樣一把剪刀和鏟子的人。。看似只是一個工具、這些年已經習慣了、如果你磨練你的手臂,它們就會變成可笑的武器。更確切地說、揭示其真實形態。那是藤澤先生的刀具。。

因為被過度使用、很自然地,他自己也成為了一名切割工。我不想這樣切割、不知不覺間我已經剪掉了、這樣的感覺。否則,就無法創造出沒有浪費的尖銳“形狀”。。雖然這是一條非常數學化的線,、某處包含孩子般的出軌遊戲的剪輯。他原本是一位雕塑家、當雕刻木頭時,它本身就變成了鑿子。、有時它也可以用作塗抹粘土的抹刀。。也是一位畫家、有時會變成畫筆。還有刀具、當我是詩人的時候,我就變成了一根可愛的小樹枝。看似正常,實則不正常。(下北澤:哈娜畫廊)

*請注意,這是剪紙,而不是剪紙。。

3週間ぶりのアップロードです

3週間ぶりにスケッチ動画をアップロードしました本当は現場からライブのようなかたちで伝えるのが理想ですが体調やその他の諸事情からいまのところはこんな形式でとりあえず「練習」です来月は青いカモメ絵画教室のスケッチ会も予定されています参加メンバーの参考になれば嬉しいです

それと先週土曜日(10/22)でグループ展「風土に生きるⅨ」展が無事終了しました会期中4回銀座の画廊に通いましたがなんとか腰痛もそれほど悪化せず「無事終了」を実感したところです

展覧会場にいくと友人知人たちが近くのあちこちで個展グループ展団体展をやっているのでついでといっては失礼ですがついでに見て回りますそれで自分の絵が大きな影響をうけることはもうありませんが「発表する意味」などについてはいろいろと考えます

目が悪くなり手指が固くなり足腰が弱り記憶力も減退し体力も年々無くなってきます若い時のような力任せの絵は描けなくなっているかもしれません。但、そのぶん見えてきたものもずいぶんありますこれからはそれをどう表現するかです。哦親愛的、あと5年くらいは今の調子で描けるでしょうそのあとはどうするかその間に考えることにしましょう