Jie sustabdys „nepaprastosios padėties būseną“

Iškart grįžęs iš pasivaikščiojimo dviračiu、„Vyriausybė、Aichi、Internete pamatėme naujienas, kuriose sakoma: „Tikimasi, kad patariamasis komitetas pakels nepaprastosios padėties būklę 39 prefektūrose, įskaitant Fukuoka.。Apie ką rašiau savo paskutiniame tinklaraštyje、Tai daug iškelta į priekį。Bet kokiu atveju、Aš jau atrakinau、Aš tai paskelbsiu dar kartą (man gėda, todėl daugiau to nedarysiu)、Aš tikiu, kad padarysiu ką nors panašaus。Prieš tai、Jau "mes、O kaip antrą kartą? "、Turiu apie tai galvoti、Ei。

Šių metų gėlės、Gal todėl, kad žmonės nemato、Jaučiau, kad tai buvo geriau nei įprasta。Paskutiniai keleri metai、Net jei galite pasiekti pumpurą、Bijūnai mūsų namuose, kurie pagaliau negalėjo žydėti、Du iš jų žydėjo šiais metais。„Gongendo Sakurazutsune“ taip pat yra geresnis šiais metais、Manau, kad tai buvo gražesnė nei įprasta。Kalėdinės rožės sode ir dideli Clematis、Gal tai paskutinis? Tai buvo taip įspūdinga, kad pagalvojau。

Šį rytą skauda mano nugarą、Aš negalėjau atsikelti kaip įprasta。Kol vakar nuėjau miegoti、Nebuvo nieko blogo。Tai buvo pirmas kartas per dvejus metus。Aš pradedu judėti po pietų、Maždaug valandą pasivaikščiokite dviračiu。Po mokyklos uždarymo buvo baigti、Tuo pačiu metu daug kartų、Toje pačioje vietoje、Matau, kad dvi merginos (tikriausiai vidurinės mokyklos moksleivės) kažką praktikuoja。Niekada nebuvau pakankamai arti, kad pamatyčiau savo veidą、Tai įsimintinas kraštovaizdis。

Aš einu namo、Kaip ir tikėtasi, iš įprastos vietos、Kaip įprasta? Aš girdžiu mergaitės dainavimą。Iš kurio namo?、Nežinau, ar tai iš alėjos、Tai ne apie dainavimo praktiką、Jaučiasi, kaip keli žmonės dainuoja žaisdami、Manau, kad。Aš ką tik kelis kartus girdėjau atsitiktinai、vis dėlto、Noriu, kad tie vaikai užaugtų、Negaliu padėti, bet to tikiuosi、Gražiai、Tai jaunas dainuojantis balsas。... Štai kodėl、... su godu、Ir kvailiems politikams、Tiesiog atsitraukite! Gal visi tai pasakys。

バカは死んでも治らない

コロナに蹂躙された4月の1ヶ月私の生活は一変した社会人になって初めて「収入ゼロ」を体験した最初は何にも感じなかった「教室休みになっちゃった今までできなかったことをこの機会にできるようにしよう」的な「チャンス」的な気分も無くはなかったこの機会に表現の世界を少しだけ広げられるかもと楽観的に思っていた

今は全然違う世界は明らかに変わった何年も前から友人と「ごく近い将来日本はドラスティックに変わらざるを得なくなるその時に(個人として)何ができるかそれが大事だよね」などとお酒を飲みながらの定番の話題だったそれが「今」来たのだと思う多くの人の予想通りに

コロナは単なるきっかけだ(社会現象としては)近いうちに起こるべきだったことがいま起こっているそれが「戦争」でなく「コロナ」だったぶんまだラッキーだと思うこれがもし戦争だったらこんなもので済むはずはないフランスのマクロン大統領ドイツのメルケル首相共に「コロナに対する戦争状態」を口にしたのも決して的外れではないコロナ戦争後に勝ち負けが現れるという危機感の表れと取るべきだ日本のような竹槍アタマでは勝てそうにないな

5月もほぼ無収入に近くなったいつまで続くか判らないがおそらくそれほど長くはない終息など到底できないが国民の持久力が続かないはずだし変化だけが商売ネタのマスコミが騒ぎ始めるはずだし経済界がコロナなどより会社が大事だと本音を吐き始めるはずだし政府の財布の底が見えてくるはずだし何より日本人特有の健忘症が蠢き始めるはずだからそのあとに来る二度目のコロナの時はもう打つ手は何もないよ政府が「二枚のマスク」の代わりに配るのは安楽死用の注射だけかな

数字の薄い「自粛要請」

「非常事態宣言」が1ヶ月近く延びて5月末までとなった4日の安倍首相の説明では前回までの自粛効果があったのかなかったのかそしてこの延長でどこまでが期待できそのそれぞれの段階に応じてどういう対策を考えているのかなどが全然見えてこなかった補正予算も脳天気なコロナが終わった後の観光刺激策などに喫緊の医療費をカバーするお金の数倍〜数十倍のお金を計上するなど目の前のことが本当に見えているのか疑わしい政策判断だ

460億円以上という莫大な予算を使っての「各世帯に布マスク2枚」3人家族はどうするの?という話は早くからあったが「とにかく何かやりゃあいいんでしょ」と言わんばかりの不毛な愚策どれだけの国民が望んだか知らないが10万円という金額算定の根拠とその政策的意味との整合性の無さ政府もバカだがそれを歓迎する国民もマスコミもバカだというしかない金額云々ではなく論理で考えられないという脳の貧困の方がコロナよりずっと深刻だ

コロナが明らかにしているのは医療体制の脆弱だとかそういう問題を越えていかに私たちがものを考えない国民かということなのではないか「非常事態宣言が延長になりました」ああそうですか欲しがりませんコロナに勝つまでは一億玉砕火の玉だ5月5日現在東京都の感染者数4654人人口13,951,781人(2020/3/13現在)。単純に計算して感染率0.000333ざっといえば1万人に3人(埼玉県は1万人に1人)しかも退院した人も入れて、yra。東京都の死者数141人(5/5現在)をやはり人口で割ってみると10万人に1人になるちなみに全国で最も交通事故死者の率が小さいのが東京都だが、2019年では約10万人に1人自殺死亡率は15.7 (人口10万人あたり)と比べて説得力ある数字なのか今年度の自殺者は確実に増えるに違いない

その一人に自分がなったらそれは大変だPCR検査をしないからだ警戒したからその数字で済んでいるなどという言い方にもほんの少しだが一理はある。bet、それでも2ヶ月も半経済封鎖しなくてはならないという数字なのか?痛みを感じているのは外出自粛を声高に言う人々とは別な人々なのではないか?感染予防そのものがいけないなどというのではない。Tiesiog、このやり方そのものが「一世帯2枚」のマスクに象徴されているのではないか、Manau, kad。