
椿の実(と種)はいつ見ても宇宙を、というより「真理」というものが本当にあるかもしれない、とわたしを虚心にさせる。
椿の実をバラしてみたことがあるだろうか。庭に椿を植えている人でも、もしかしたらそういう経験がないかも知れない。知らぬ間に実が弾け、種が地面に落ちてしまっていることが普通だから。
でも、たまたま弾ける前の実を採っていたら、それを見ることができる。(視覚的には)極めて単純なかたちの種がそこに在るのだが、それらがどう繋がっていたのか、くっつけてみようとするとかなり難易度の高いパズルになる。たったこれだけの個数なのに、どれも微妙な凸面凹面を持っていて、それが立体である分、パズル好きにも十分楽しめる。
椿は花ももちろん美しいが、弾けた実(と種)の不思議な魅力にもわたしは深く魅入られる。ir、そこに「数学」の美しさを感じてしまう。たとえば林檎とかカボチャとかの一般的な植物の種なら、だいたい同じ形(相似形)をしているものだ(と思うだけ素人ですが)。椿の種は、もとは一つの種が2つか3つに分けられているんじゃないか?と思わせる形をしていて、さらにそれらが互いに似かよっているくせに同じかたちは二つと無い、と誰にも否応なく直感させる。 “微妙な違い” なのにそれを見逃すことができない。“合理的な理由” があるはずなのに、説明できない。「不思議さ」の本質がそこにある。
「不思議」と「理解不能」とは違う。それは別次元のことだ。不思議さというのは、一見すぐに理解できそうでいて、「考えれば考えるほど、さらにその先に引かれていくような深さ」のこと(そして最後にはちゃんと理解できるはず、と思えること)。椿の種には「不思議100%」が詰まっている。この不思議さは、椿の種がきっと数学で出来ているに違いない、と感じさせてくれるからだ。
数学は苦手だったが、子どもの頃にこんな不思議さを教えてくれる先生がいたら、今の1000倍くらい数学が好きになっていただろう、Manau, kad。