
見る人が絵に求めるものは様々。ある人は写真そっくりなものがいいと言い、或る人は写真のようじゃ詰まらないという。またある人はそもそもかたちなど必要なく、色さえ無くていいという。実際にキャンバスをそのまま展示したり、そこに傷やシミを作るだけで「作品」という作家もいる。なるほど、確かにそれも有りだ。見る人がそこに何かを「見出す」ならば。
子どもの頃はそんなとは全然考えたこともなかった。実物そっくりに描きたいと思ったこともなかったが、「頭の中にあるものは眼に見えるようにしたい」とは、強く願っていたのは間違いない。
そんな時、おとながちょっかいを出す。「これを描いてみろ」。どのおとなも想像力というものが無かったから、写真のように、つまり写実的に描いて見せるより説得力のある方法はなかった。子どもだからそんなことを論理的に考えたわけではないが、直感的に分ってしまった。
それで、いろいろなものを描いた。特にお札を描くとおとなは面白がった。紙幣はレベルが高いので、描く側にも挑戦し甲斐があったから。そっくりに描くには観察力が要る。それも描く側からではなく、観る側に立っての。大きくなってもそれらの(想像力に乏しい)要求は絶えることがなく、従って今でもそれに応えるだけの写実力は捨ててしまうわけにはいかない。
立体感を喜ぶ人が多い。なぜだか本当はよく解らない。也许、平面なのに立体に見えるのが不思議な感覚になるのだろう。描く側から言えば、別に立体感など作っているわけではない。ただただ、見えたもののデータを或る美術的関数の中に入れれば、こうなるだけのことだ。創作力というのは、その関数以外のこと、描いているとそんな風に思えてくる。