蟹のスケッチ

下北のヒラガニ(ヒラツメ蟹) (茹でた蟹を水彩でスケッチ)

暑い今日(7/31)も熊谷で38℃の「危険な暑さ」になるというこんなにも連日危険な暑さが関東各地で続くということはすでに関東は(夏は)危険地帯だというに等しい暑さを避けて人が外に出られなくなるほど宅配サービスなど外で仕事をしている人の仕事量は増える彼らの汗を拭き拭き次の配達先をスマートフォンで見ながら小走りする姿を見ると「文明(機器)は進歩するが文化(社会)はそう簡単に進歩しない」といった誰かの言葉にうなづかざるを得ない

nedávno、教室では写真をもとに絵を描くことが多くなった一つには花などをモチーフとして買いに行ってもこの暑さとコロナによる人手不足のせいか花の状態があまりよくないせいもある花を探すにも数時間はかかるきれいな花もいいが描くのに難しい花はやめておく一人一人の顔を想い浮かべながらこの人はこういうのを描きたがるこの人にはちょっとハードルが高いかななどと考えながら四捨五入して購入する毎日買いに行く時間もないから少なくとも数日は持たせたいがこの暑さでは管理の方が難しい

それと花などのモチーフ(花くらいしか人気がない)ではほぼスケッチで終わるそのスケッチをもとに自分のアイデアやセンスを加えて「作品」にする試みをあれこれそそのかしてもなかなか乗ってこないもともとスケッチが描ければいいと思って始めた人が大半だからそれはそれで確かに一貫しているのだが

教室で実際に筆を動かしている時間はせいぜい2時間。například、この蟹のスケッチにはその倍以上の時間がかかっているから生徒さんが教室で3時間必死に描いても1回で描き上げるのは無理(描き方にもよるが)教室以外のどこかで時間と体力とをくくりだし「いつも(日常)」の壁を突破しなければスケッチさえ出来あがらない写真を使うのはそのための意味もある。Ale、「いつも」を突破する力はやっぱり描くことに対する「愛」なのかなと思う

Co umění nabízí?

Květiny v květináči (akvarel)

Dříve reprezentoval na mistrovství světa a olympijských hrách、Sportovní komentátor nedávno řekl toto:。„Sportovní svět、Využívají se i daně lidí, kteří nesportují.、Co můžeme vrátit společnosti?。Pokud na to nebudeme myslet, lidé se od sportu odvrátí.“。

Nerozumím tvým pocitům, ale、Co považuji za trochu nebezpečné, je, že ``Protože používáme peníze z daní, musíme něco vrátit.''、Něco podobného dávat a brát。Zdá se, že tato část dnes v Japonsku rezonuje u mnoha lidí.、Pokud se nad tím zamyslíte trochu hlouběji, mohlo by to vést k vyloučení sociálně slabých lidí tím, že řeknete: ``Nechci, aby to lidé, kteří to nemohou (nebo si nemyslí), vrátit, aby to používali.''、I pro výchovu dětí、Může to navodit pocit nacionalistické povinnosti „v budoucnu se vrátit do země“、Myslím, že ano。Samozřejmě to neřekl přímo.、Obsahuje logiku, kterou lze jako takovou interpretovat.。Když se tento ,,návrat'' stane ,,něčím konkrétním'', stane se prohlášením jako ,,Nemá to smysl, pokud to není (zlatá) medaile.''。

Pokud takto uvažujete, pak、"Co umění vrací?"、Stane se z toho propagandistická malba, která „slouží národu“ jako v minulosti v Rusku a současné Severní Koreji.。Někteří lidé říkají, že ``umění je kanárem společnosti''.。určitý、Kdysi dávno, když se do podzemí dostal uhlíř、酸欠状態かどうかを知るためにカナリアを先に入れたということが言葉の起源だったと記憶しているスポーツや芸術を認める社会がとりあえずは「安全」だというバロメーターとしてだけでもすでに充分意味のあることだ

世は健康志向だ。Ale、三流映画に出てくるようなただただ殺戮するだけのロボット的な軍人ならともかく運動と栄養だけで人間は健康になれるわけではない精神的な愉しみ安らぎが必要だ心の栄養も不可欠だということ人間らしさという意味では芸術は最も社会還元の大きな分野だとわたしはいつも思っているが同時にそれがこの社会の常識であり続けることを心から祈ってもいる

悪魔のささやき

黄色のワイン瓶のある静物(akvarel)

7月7日にブログにアップしたこの絵のプロセスの動画を昨日(7/21)YouTube(青いカモメの絵画教室) にアップした編集にあしかけ3週間(そのうちの1週間以上は何もできず)かかった画像編集が終わってからのナレーションの方がむしろ時間がかかる下手なナレーションなど無い方がいいのではないかと毎回自問しつつ

「動画は短ければ短いほどいい」のだそうだ聞くと「40秒」以内が主流になりつつあるというスポーツやダンスなどでは、40秒あれば確かにそこそこの勝負まで伝えられる大相撲名古屋場所がコロナ蔓延の中で興行中だが相撲の結果だけ見たい人にとっては勝敗一覧表の1秒でいいし取り組みダイジェストを動画で見ればライブなら2時間かかる幕内全取り組みを数分で見終える

けれど絵のようなもので何が伝えられるかというと考えてしまう完成作を見るだけならそもそも動画にする必要などない動画にする意味はまずそのプロセスに興味がある人にたいしてだけそういう人がどれだけいるかと考えてみると膨大な時間を使ってほとんど無意味なことを自分はしているのではないかそんな暗澹たる思いにとらわれてしまう

「40秒」という悪魔の囁き聞かない方がよかったのかそれとも聞いてよかったのかこの暑さの中で心がキューっと冷えていく気がする