
今年は「プチ断捨離」をした。暑い中、自粛ムードで出かけることが少なくなり、部屋の狭さ(使わないものの多さ)を痛感したからだ(そのくせ、数日後には「アレ、なんで捨てちゃったかなー」と後悔したり)。その過程で、昔買い込んでおいた安物の紙類があちこちから現れてきた。
小さい頃は、落書きをする紙が全然足りなかった。算数、国語のノートは周囲どころか、表紙裏、挙げ句は本体部分までの落書きで、その隙間に授業のなにかが見えていた。教科書の行間にも描き、クラスの子のノートにも描き、テスト中にもその用紙の裏に描いた。ときどき母は近所の家から捨てるような紙を貰いに回ってくれた。
det är därför、何にも描いていない紙を捨てるのは、私には相当の罪悪感がある。「高野聖」の作者、泉鏡花が、文字の書いてあるものを捨てるのは、それがなんであれ嫌がった、というのをどこかで読んだ記憶があり、比較は僭越だが深く共鳴したのを覚えている。
そんなわけで、「何かを描いてから」捨てるつもりで、それらの紙にスケッチ、クロッキーを描き始めた。すると、一本、線を引くたびになにかが目覚めるような気持ちになるのだった。
描けば良いってもんじゃない。が、これはもう一種の病気、中毒あるいはすでに私の持病なのだ、と感じた。描かなければ死んでしまう、描くことだけが効能ある薬、と改めて思う。「毒をくらわば皿まで」。最後まで薬は手放せない。