答えのない答え

「飛ぶ男」(制作中)F120

昨日から喉が痛い熱は無いのでどうやら(普通の)風邪だ土曜午後悪いものを見たからかも知れない

作品制作中なかなか思うようにいかない。Obehaglig、思うようにいくのだがその「思うように」自体がダメなんだだから考え直さなくちゃいけないがどこまで戻って考えたらいいかを判断しているうちに迷路にはまり込み始める

Men、いま思うことは「答えのない答えを求めない」ということではどうするのか?というと方法が無い当然答えのない答えを求める方法があったらその方がおかしい結局は感覚だ

感覚ってその人の全て体力も気力も知識も経験も好みも全て合わせて「感覚」それで良いと感じるまでやるだけ試行錯誤とか迷いとか言葉は色々当てはまるがそんな言葉に振り回されていても何にもならない良いと思えるまでやれば良いだけのことだしそれ以上できるはずもない

靖國神社

売店にて
「晋ちゃんまんじゅう」その他

午後から急いで東京・九段のイタリア文化会館へRobert Bosisio の絵を見に行ったとても質の高い良い作品だったがたった4点しかない画集が2冊置いてありそれを見ても全体で30分もあれば十分画集を売っていないかと聞いても「見るだけ」とそっけないじっくり目に焼き付けて帰る

九段坂上の角まで来ると靖國神社が正面一度も見たことがないのでせっかくだからと入ってみた以外に若い女性が多いのにちょっと驚く中に入っても習い事とか何かあるのか連れ立ってそれなりにきちんとした身なりの女性たちがかたまって座っていたりするこちらは半袖の汗だくであちこちうろうろ昨日は暑かったんだ中国人が多いのも意外「歴史認識」の海外研修か?

帰り際チラッと売店をみると「晋ちゃんまんじゅう」麻生太郎の似顔絵のついた「タローカポネ・ラスク」知ってはいたが実物を見るのは初めて毒のようで食う気がシネーナー

エミリー・ウングワレ

エミリー・ウングワレ「私の故郷」1992

エミリー・ウングワレ(Emily Kame Kngwarreye 1910?-1996)はオーストラリアの中央砂漠の端の小さな集落にアボリジニとして生まれたいわゆる西洋式の教育を殆ど受けたことがなくアボリジニの伝統しきたりの中で育ちそこから出たこともなかった

オーストラリア政府の教育プロジェクトの一環として近くで美術と工芸のプログラムが始められエミリーがそれに参加したのはもう80歳目前の時だ始めはバティック(染色の一種)を学んだが、2年ほどして美術の授業を受けそこで初めてキャンバスに絵を描くことを体験するそれまでは(西洋)絵画に関する一切の知識も経験もなく絵筆を握ったことさえなかった

この時のプログラムの最後に受講者たちの展覧会が開かれそこでエミリーの絵が注目を浴びる。1〜2年のうちに現代絵画の世界的な展覧会に招待されるようになりオーストラリアを代表する作家になる絵というものに触れた瞬間から亡くなるまでのわずか5〜6年世界の現代絵画のなかで特別な位置を占めるまでになった

彼女自身にとってはそのような栄光にほとんど意味はなく依然として砂漠に住み周囲の自然の感覚の中でヤムイモの収穫を祈りそれを食べ感謝の唄を歌い踊るキャンバスに絵具を塗ることもそのような自然な生活の一部分になったということに彼女自身の意味がある1点数億円で自分の絵が売買されることよりヤムイモや地の霊を思いそこに捧げる歌や踊りのもう一つの方法を絵という形で獲得したことが彼女にとっての価値になった計算するとほぼ1日1枚毎朝顔を洗うように昼寝をするのと同じように描いていたらしい、3000枚の絵私はエミリーが亡くなって2年後にその大展覧会を見た