モダンアート・アメリカン展を国立新美術館で観た。ヨーロッパ直輸入の時代から、次第にアメリカの風土性が強くなり、やがてヨーロッパとは違う独自の道を歩み始め、そこに自信を持つに至るプロセスを分かりやすく並べてある。
ジョージア・オキーフという女性画家(写真家アルフレッド・スティーグリッツの妻でもあった)。大画面に蘭などの花の一部分だけを特にクローズアップして、女性性器かと一瞬見紛う表現などで知られている。その写真的な手法など、一流の写真家であるだけでなく、現代美術の隠れた天才ディレクターでもあったスティーグリッツのアイデア、戦略そしてオキーフの感性を見抜く目を抜きにしては語れない(はず)。
そのオキーフの作品が3点ほど出ている。どれもあまり大きくないが、そのうちの20号ばかりの、一枚の枯れ葉を描いた作品に特に魅かれた。前面に一枚の大きな白っぽい葉。その後ろに赤茶けたもう一枚の葉が重なっている。さらにその後ろの葉と、全体で3枚の葉っぱを描いているだけだ。前面の白い葉の一部に、それが枯れ葉である証拠の乾いた亀裂が入っているのが、この絵の核だと思う。背景も白。色彩は主に白と茶色の葉、それに背景の白だけの単純さで、モダンアートの旗手の一人としてはむしろ地味な絵だ。
多分実際にきれいな色の葉っぱだったのだろう。何となく拾い上げて手に乗せて見た。普通ならそのあと捨ててしまうか、描こうとして持ちかえっても結局描かずに捨ててしまう。bet、そこに長い、一本の亀裂がオキーフの目を捕えた。何かが閃いて、それが絵になった。葉も大事だが、この亀裂が絵の核だというのはそういう意味である。もちろんこれは私の勝手な空想に過ぎないけれど、絵というのは往々にそうやって生まれてくるものだからだ。
エドワード・ホッパーの絵にも魅かれる。男が座っている。何でもない光景だし、その前にもその後にもたくさんの男も女も座っているのを見ていた筈なのに、その時その場所での男がホッパーに突然の閃きをもたらしたのだ。その男をあえてモデルに雇ったとしても、描く気持になったかどうか(制作にあたってモデルを使ったかどうかは関係無い)。
クリフォード・スティル。これら世代は異なるが、アメリカの絵画はモダン、時代の最先端というイメージが強く、日本人が真似るとことさら新奇、激しさ、けばけばしさなどを強調するが、実際に見ると案外に地味なのである。その発想も自分自身に発していて、むしろ謙虚で素朴という、モダンアートのイメージと矛盾した言葉さえ浮かぶ。日本人はアメリカ絵画の本質をどこかで見誤っているのではないだろうか。絵画の本質は、レオナルドの時代でも、現代でも変わっていないような気がする。日本でもアメリカでも。そういう大事なことを、教えてくれる展覧会かも知れない。 2011/10/16