
支持体(キャンバスとか紙・板とか)と、画材(油絵の具、அக்ரிலிக்、テンペラとか)の協調性というか、相性の良さをいろいろ試す。
どこに何を使っているか、メモを取りながら描く。制作というより、「演習課題」。課題設定は当然ながら自分で。
毎日の制作ごとにビデオを撮り、それを分析・データ化する人もいるらしい。私にはそこまでの要請はないが、演習「課題」の結果だけは記録しておく(あとで見返さないことが多いのがボケ)。
使えば減る。擦れば減る。ナイフが細くなるが、なかなか良いのが見つからない。
あまりナイフを使う方ではないが、それでもこれまでに大小数十本はすり減って使えなくなった。折れたナイフも十本以上になる。日本製は「か弱い」女性に合わせて作るのか、握りが小さ過ぎて指が余ってしまう。当然強度もそれなりで、ちょっと力を入れると、折れたり曲がったりして使い物にならない。ナイフに合わせて描かないといけない、という逆転が起きる。
カタチだけ真似る。そのカタチを生み出した思想には深く入らない。一刻も早くそのカタチをマネる、そのスピードが「敏感さ」や「センス」の評価であって、カタチのないものへの鈍感さには気づかない。かつて猿真似と揶揄された日本文化は、いまもあらゆる分野でしっかりと健在だ。

コンピューターで絵を描く、コンピューターで詩や小説を書く、コンピューターで音楽を作る。今はどれもできるし、部分的には誰でも使っている。
「で」のところを、限りなく「が」に置き換えていこうとするのが、IT技術だ。それも今はかなりの水準まで来ているらしい。
人が人に直接伝えるのは、かなりの物理エネルギーを消費するが、コンピューター経由では比較することができないほど省エネになるだけでなく、誰でもどんなカタチにでも利用できる(法律はこの際別として)。
芸術はロボットに任せることにして、人間は鑑賞、批評だけしていればいいだろうか。その判断基準もロボットに示してもらって。これも、ある部分では既にそうなっている。
高齢化社会では、老人は費用対コストの観点から、「削除」が基本になるだろう。新しい意味で「人生50年」時代がもうすぐ来るに違いない。