Jie sustabdys „nepaprastosios padėties būseną“

Iškart grįžęs iš pasivaikščiojimo dviračiu、„Vyriausybė、Aichi、Internete pamatėme naujienas, kuriose sakoma: „Tikimasi, kad patariamasis komitetas pakels nepaprastosios padėties būklę 39 prefektūrose, įskaitant Fukuoka.。Apie ką rašiau savo paskutiniame tinklaraštyje、Tai daug iškelta į priekį。Bet kokiu atveju、Aš jau atrakinau、Aš tai paskelbsiu dar kartą (man gėda, todėl daugiau to nedarysiu)、Aš tikiu, kad padarysiu ką nors panašaus。Prieš tai、Jau "mes、O kaip antrą kartą? "、Turiu apie tai galvoti、Ei。

Šių metų gėlės、Gal todėl, kad žmonės nemato、Jaučiau, kad tai buvo geriau nei įprasta。Paskutiniai keleri metai、Net jei galite pasiekti pumpurą、Bijūnai mūsų namuose, kurie pagaliau negalėjo žydėti、Du iš jų žydėjo šiais metais。„Gongendo Sakurazutsune“ taip pat yra geresnis šiais metais、Manau, kad tai buvo gražesnė nei įprasta。Kalėdinės rožės sode ir dideli Clematis、Gal tai paskutinis? Tai buvo taip įspūdinga, kad pagalvojau。

Šį rytą skauda mano nugarą、Aš negalėjau atsikelti kaip įprasta。Kol vakar nuėjau miegoti、Nebuvo nieko blogo。Tai buvo pirmas kartas per dvejus metus。Aš pradedu judėti po pietų、Maždaug valandą pasivaikščiokite dviračiu。Po mokyklos uždarymo buvo baigti、Tuo pačiu metu daug kartų、Toje pačioje vietoje、Matau, kad dvi merginos (tikriausiai vidurinės mokyklos moksleivės) kažką praktikuoja。Niekada nebuvau pakankamai arti, kad pamatyčiau savo veidą、Tai įsimintinas kraštovaizdis。

Aš einu namo、Kaip ir tikėtasi, iš įprastos vietos、Kaip įprasta? Aš girdžiu mergaitės dainavimą。Iš kurio namo?、Nežinau, ar tai iš alėjos、Tai ne apie dainavimo praktiką、Jaučiasi, kaip keli žmonės dainuoja žaisdami、Manau, kad。Aš ką tik kelis kartus girdėjau atsitiktinai、vis dėlto、Noriu, kad tie vaikai užaugtų、Negaliu padėti, bet to tikiuosi、Gražiai、Tai jaunas dainuojantis balsas。... Štai kodėl、... su godu、Ir kvailiems politikams、Tiesiog atsitraukite! Gal visi tai pasakys。

「5月」を傷つけるやつ

今日は5月11日快晴暑い一日だった今日もオンライン授業のための動画編集前にも書いたがオンライン授業というのはカメラとマイクを前に置いて普段通りを(学生が全員眠っていると仮定して)「無人授業」としてやるのだと多くの人は考えているテレビでは「そんな」オンラインばかり写すからそう思う人が大多数なのは仕方ない

実際はそういうオンラインに都合のいい「講義授業」ばかりではないはずだ例えば目の見えない人に点字を教える講義をオンライン授業でどうやるのか?私には簡単には想像できないもう少し一般的にしても看護学生に「注射」の練習(するのかどうか実際は知らないが)はどうやってオンラインにできるのか?ともかく政治家や評論家のようになんでもオンラインでできそうに言うのは無知だしそう思うのは幻想だ、Štai kas。どんな物事だって一歩入ってみるとことはそう単純ではない

とはいっても一歩家の外へ出れば五月晴れ(さつきばれ)だろうと五月雨(さみだれ)だろうとやはり五月の自然があふれているこんなときは登山がいいのではないか「3密」は無いし気分転換にも筋トレにもなるしと思ったら「やめてくれ」だそうだ「なんで?山ではほぼ誰にも会わないぜ?」と思ったら山小屋はもちろんテントでも設営区域が混み合うのだというネットで見るとテントとテントがひしめき合っている「ように見える写真」が載っている実際にテントを張ったことがある人なら写真の印象と実際との間にはソーシャル・ディスタント以上の距離があることを知っているはずだ

本物の「山男」たちが何も言わないのに私ごときが「登山がいい」などというのは控えるが、Kažkur、「実態を知らない人たちがさもそれが正しく正義であるかのように言ってるぞ」とは思う「自粛警察」なる新語も幅を利かせているそうな何ですかその「正義感」本当に正義だと思うなら「こそこそ」と張り紙したりせず堂々と名前を名乗って「公的に抗議」したらどうですか渋谷のハチ公もマスクさせれられたそうだ。Tai、何の批判性もなくニュースで報道するNHKも(あるいはもっと罪の深い)「自粛警察」(行為)だと私は思う(コロナ時でない)普段ならこれは「落書き」と同じ行為だと(当のNHK自身が)非難するはずだろうから

バカは死んでも治らない

コロナに蹂躙された4月の1ヶ月私の生活は一変した社会人になって初めて「収入ゼロ」を体験した最初は何にも感じなかった「教室休みになっちゃった今までできなかったことをこの機会にできるようにしよう」的な「チャンス」的な気分も無くはなかったこの機会に表現の世界を少しだけ広げられるかもと楽観的に思っていた

今は全然違う世界は明らかに変わった何年も前から友人と「ごく近い将来日本はドラスティックに変わらざるを得なくなるその時に(個人として)何ができるかそれが大事だよね」などとお酒を飲みながらの定番の話題だったそれが「今」来たのだと思う多くの人の予想通りに

コロナは単なるきっかけだ(社会現象としては)近いうちに起こるべきだったことがいま起こっているそれが「戦争」でなく「コロナ」だったぶんまだラッキーだと思うこれがもし戦争だったらこんなもので済むはずはないフランスのマクロン大統領ドイツのメルケル首相共に「コロナに対する戦争状態」を口にしたのも決して的外れではないコロナ戦争後に勝ち負けが現れるという危機感の表れと取るべきだ日本のような竹槍アタマでは勝てそうにないな

5月もほぼ無収入に近くなったいつまで続くか判らないがおそらくそれほど長くはない終息など到底できないが国民の持久力が続かないはずだし変化だけが商売ネタのマスコミが騒ぎ始めるはずだし経済界がコロナなどより会社が大事だと本音を吐き始めるはずだし政府の財布の底が見えてくるはずだし何より日本人特有の健忘症が蠢き始めるはずだからそのあとに来る二度目のコロナの時はもう打つ手は何もないよ政府が「二枚のマスク」の代わりに配るのは安楽死用の注射だけかな