修行-チョコパイを描く

シャトレーゼのチョコパイを描く

昨日の「チョコレート・パイ」を今日も7時間描きやっと仕上げたほぼまるまる2日間首に炎症止めのテープを貼った眼もショボショボ同じ距離ばかり見ているから机の前から離れると俄かにはどこにも焦点が合わない

終わってみると随分無駄なことをしたのが解るこれもCGでは必ず使う「レイヤー」という記録保存機能のおかげこれを見直すとどこが無駄な作業だったかよく解るもっと効率よく描けないとダメだ絵というのは無駄なことをすると色が濁るとよく言われるがたぶん本当これはCGで描いているが頭の中では時々水彩の計算をしたり油絵の計算をしたりで制作中ずっと混乱気味だったCGはモニターで見るのが前提だからどちらかといえば水彩の計算をする方が良いのだがなぜか油絵の計算を混ぜていた

「水彩」の計算というのは「紙の白さを透かす」ということつまり暗い絵の具を先に使って紙の明るさを減じてしまうと次の発色が悪くなるということ油絵の場合は「明るい色は暗い色があってこそ」そのため明るい色の表現は水彩と油絵では正反対の考え方になるモニターは色をバックライトの明るさで見るから先に画面に暗い色を使ってしまうと上に被せたきれいな色が下の暗さを「吸い込んで」しまう――油絵ではこういう場合「透明技法」を使うきれいに見せたい色の「下」をいったん「白」にするのである白が乾いたらその上に望みの色を「透明化して」乗せる・・・なぜかCGなのにこの技法を使うイメージになっていた一種の“ボケ”かなと思う

bet、とりあえず終了できたのは !(^^)! 。描いたあとでよく見たら6枚のパイが入っていてたしか300円台?で買ったと思う「彼女」へのクリスマスプレゼントなら「安すぎる~!」。bet、翻って考えてみると丸二日働けば全国どこでも少なくとも 15000 円になるなかでこの絵の単価「 0 円」これが「芸術家の(永遠の)修行」でしょうか

感覚的と論理的

デモ制作を制作中(油彩・F8)

「天才的」と言われる人たちがいる一般の人には思いつかないような発想と飛び抜けた能力で若くして人類史的な一つの仕事を成し遂げてしまう人々のこと学問の世界にはたくさんいるようだが残念ながらそちらはあまり詳しくないので例を挙げられないがスポーツならアメリカ大リーグ野球の大谷翔平(以下敬称略)だろうか発想はともかく彼のずば抜けた能力とその達成したものを見る限り天賦の才能つまり天才と呼んで差し支えないのではないかと思う

同じ野球でもイチローには「天才的」と呼びにくいものがあるとわたしは感じる「彼のずば抜けた・・・その達成したもの」を見る限り彼もまた天才と呼んで差し支えないはずであるなのになぜ彼の場合そう呼びのに一瞬ためらうのだろうか一つは「体格」大リーグ選手の中ではイチローはかなり小柄である。ir、ホームランより足で稼ぐような渋いヒットアッという驚きより「コツコツとたゆまない努力の積み重ね」の印象が強いおもにその2つが彼を天才というより努力の人=秀才というイメージにするのではないだろうか。Bet、本当は彼もまた上記の理由で天才の一人だと言えるはずである

「天才」になる方法は無いしそれを目指すこともそれ自体矛盾である。Bet、天才も自分一人では天才にはなれない大谷選手であれば監督が彼を起用することが第一でチームがいることが次でそれを喜ぶファンがいることがその次に不可欠だそのどれが欠けても彼は天才にはなれないのである彼自身の天才とそうした環境が合わさって初めて「天才」が生まれるのであるでは「秀才」になら誰でもなれるのだろうか

スポーツや芸術には「感覚で覚える」という部分がある天才的と言われるような人たちはまずその能力がずば抜けている人が長い時間かかってやっと身につけるような微妙な感覚を極めて短時間に「体得」してしまう。bet、「天才の悲劇」のモトも実はここにあるらしい天才の悲劇とは「時代に合わない」「スランプ」であるこの二つは全然違うもののようでいて実はほぼ同じものであるらしいスランプとは「頑張っているのに同じことができない」ことだがその原因は「体得するための方法論(論理的ステップ)がないこと」だということが最近の研究でわかってきたという
―感覚的に体得できてしまうために論理化するプロセスが築かれない―それが原因ではないかという“不器用な人”は“どうやったら彼(女)のようになれるのか”と研究せざるを得ないそれが「論理化のプロセス」であるこれは多くの「天才でない人々」にとってのバイブルとなる

そのバイブルに従って「天才に近い人」になるだけの努力と才能のある人それが秀才であると言ってもいいのかもしれない「努力」と「才能」やっぱり秀才にもそう簡単にはなれないのである天才を太陽に喩えるなら秀才は月どっちも遠いがとりあえず人類は月には到達したので「あった」

無題−2

無題ー2

Adobe社のFrescoというアプリにアニメの新機能が加わったというニュースを10日前に知ったがやっと昨日試すことができたこれがたぶん4個目くらいの試作だがやっていると「なんでこうなるの~!?」ということがいっぱい出てくる。1つ覚えると4つぐらいそんなのが出てくるがそれを繰り返しながら一つ一つ覚えていくしかない道具の使い方を覚えるというのはそういうものだ

この動画ももっと面白い動きがあったのだが自分でも分からないうちに削除してしまったらしい自分が何を削除しているのかさえよく分かっていない(今も)これ以上なくならないうちにとりあえずお目にかけておくことにした

こういう動画を時間かけて作るのがバカバカしいと思う人はいるだろうわたしも薄々はそう感じながらやっているが「それを言っちゃあおしまいよ」と誰かのセリフを頭の中で繰り返しながら黙々と何時間もやっている他にもやることはいっぱい溜まっているがもう少しやらないとそれこそ無意味になってしまうとか言って

動画の内容に意味はまったく無い。bet、逆にその無意味さに救われる繰り返し見ているとなぜか笑ってしまう。ir、無意味な動画作りが無意味なのではなくてやらなくてはと思っていることの方が何だか無意味なように思えてくる結構まじめに描いては再生描いては修正しているうちに自分がこのドタバタのなかに入りかけてくるもう少しクルッと回ろうかなとか