わたし自身も、これじゃ「デザイン以前」だと思う。たいていのデザインにははっきりした(社会的、商業的)な目的がある。Iš kitos pusės、(現代の)絵画にはそういう意味での目的はないが、作者個人の生存意義を深め、「社会との違和感」を作り出すことによって(広い意味で)社会の変革を促す力になる。それが絵画だとするならば、ずいぶん薄っぺらく、とてもそんな力などどこにも入っていないように感じるだろう、Ei。
kita vertus、パソコンはある意味で「社会」そのものでもある。「世界」と言ってもいい。もう「架空」ではなく、すでに現実である。スーパーでお惣菜を買うのが現実なら、パソコンで冷蔵庫を買うのも現実だ。学校で授業を受けるのが現実なら、先生がパソコンで勉強するのも現実だ。パソコンとの接し方は自分が主体であるかどうか、そこにかかっているように見える。自分にとって何が大切で、どうなれば自分が幸せになれるのか、そのためにパソコンが有用なら仲良くなればいいし、要らないなら使えなくても何の問題もない。そこはまだ現実の方が、現実になっていない。
それを昨日から再び始めた。昨年暮れに一年契約したから、もう3ヶ月も無駄に経った。決してサボってばかりいたわけでもなく、同時に新旧あわせて十数個のアプリを一度に購入したので手が回らないのだ。ipad Air 4というタブレットも買い、コロナを機会に半分は自分を変えるつもりで意気込んでみた。毎日朝からパソコン、タブレットをいじり、初めて見るアプリをいじり、「絶壁アプリ」のPhotoshopとIlustratorにもとうとう再挑戦。
Jei pabandysi、一つ覚えるのにも想定の数倍、数十倍の時間がかかる。たとえば上の写真のロゴマーク作りの練習課題にも、朝8時からほぼ丸一日。出来たのは午後11時だ。できる人なら10分もかかるまい。恥ずかしいが、それでもまあ普通らしい。ビデオを繰り返してもどうしても解らないところを、ご飯時とかに息子をつかまえて聞く。彼は数回画面をリピートさせるだけでスラスラと解く。モノの数分もかからない。説明を3回繰り返して10分経つと彼は去る。わたしは3回聞いても「・・・」だが、それをヒントにまた数時間粘る。ギブアップメールで写真を添付してまた尋ねる。律儀にメールを返してくれるのが申し訳ない。なんでこんなことやろうと考えてしまったのかと反芻しているうちに、何となく出来ちゃった・・・。
「絵が描けなくても生きていけるけど、パソコン(スマホ)ができないと買い物も病院にも(ごく近い将来)行けなくなるよ」と息子は言う。無人コンビニが実際に増えつつある実情を考えると、そういった世界への過渡期なんだなとは思う。bet、一様にずるずると流れるほど地球も平らではないぞ、Aš taip pat manau。