「偶然」の怖さ

「Green apple」 2020.1  F10 Oil on canvas

今や世界的なパソコンモバイルメーカーとなった米国の「Apple社」のロゴ「リンゴのかじり欠け」?が広まるずっと前今から40年くらい前から私は「かじり欠けリンゴ」の絵を時々だが描き続けているその当時現在の「Apple社」は「マッキントッシュ」という社名だったApple社になってそのロゴマークを初めて見たとき同じようなことを面白いと思う人がいるんだなと感じたそれはむしろ共感だったがあとでもしも私がそのロゴを盗用したと言われかねない事態に備え自分の方が先だという証拠だけは残しておこうと考えた

そんな状況など私とごく少数の人以外に誰も知るはずはないからこの絵を初めて見る人は「なんだAppleのロゴを絵にしただけじゃん」と思うだろうそれでとりあえずここに書けば数人は事情通が増えるはずである少し違うが前後関係が無視されてしまう似たような体験がいくつかあるその一つが、1990年11月に始まった九州「雲仙・普賢岳」の噴火

1987私は「クラウド(雲)」というシリーズ名の作品を描き始めていた(「クラウド」というシリーズのネーミング自体今となってはそうした偶然の一例になった観)「朝日の出と共に登り日中には世界中に目まぐるしい変化を見せる雲疲れそう」その雲にせめて夜のうちは暗い地下でぐっすり休み日の出とともに再び元気に空に登る雲」私の大好きな雲を慰労する発想だったやがて1990年「元気溢れる真っ赤な雲が稜線を一気に駆け下りる雲」のDMをはじめ多くの雲のイメージでデパートでの大きな個展をした

自分にとって面白い個展だっただけでなく評判も悪くはなかったそして個展直後に雲仙・普賢岳の「噴火」が始まった噴火の様子は全てのTV局で連日朝から晩まで流れっぱなしそしてあの「究極の」大火砕流私の「元気に稜線を駆け下りる真っ赤な雲」のイメージは制作時期と火砕流との時系列など無関係にマスコミの「火砕流」に収斂されてしまった以後のは作品発表のたびに火砕流をモチーフにしていることにされてしまった個人とマス・メディアとの圧倒的な量の差を直接体感した最初の経験だったテレビの力は大きい。O tiksliau、人々はまるでテレビが事(真)実でありテレビそのものを信仰しているかのように見えた

もう一つ。2008年私は「天から豪瀑する傲慢な人間を戒める都市への懲罰的な大洪水」(聖書にあるノアの方舟が頭にあった)を、1000号を超える大作「叫ぶ男」(210 x 540 cm)で発表したその続編の「竜巻の男」続いて「人間をやめた」新しい生き物を「新生」として同サイズの大作をシリーズ化する構想を始めていたそして2011年1月再び「大洪水」を描き始めた描き込まれる人間の数も今回は300人を越えていた2ヶ月後の「2011、3、11」 東日本大震災岩壁を越え海が滝のように市内に向かって溢れかえる津波のTV映像を見ながら私は自分の絵が現実になったような錯覚を感じていたその年「大洪水」を描き続けることはできなかった

欠点

「Apple」  2019.12 F6  tempera

「欠点」ってなんだか恥ずかしく隠したいことのように思えます。bet、どうやらそうでもないようなんです

皆さんはテストで「満点」をとったことがありますねニコニコしてうちに帰り親に見せましたね親もニコニコしておかずがちょっと増えたりしてそれできっと「次も満点をとりたい」と思いましたね

Tačiau、決して勉強をサボったわけでもないのに次からはなかなか満点は取れなかったでしょう他の子だって満点をとって親のニコニコ顔を見たいしおかずも増やして欲しいと思っているからです先生だって毎回毎回全員が満点をとったら不安です「私のテストの作り方がおかしいのかしら」悩みすぎて自殺してしまわないためにはテストを難しくするしかありません(テストをしない方法もあるのですがこの国ではテストでできるだけ子どもを苦しませこんな苦しい思いをするくらいならもう勉強なんかやめて働くのがいいさと思わせて労働人口を確保しようという政策で学校を運営させているのです先生も公務員である以上逆らえば国に人質にとられている自分の子どもと一緒にホルムズ海峡へ送られてしまう危険性があるのです)(冗談ですよ念のため)

そんなことは子どもでも知っていますからそこは阿吽(あうん)の呼吸で適当に平均点以下だったりあと少しで満点だったり操作をしましたね先生も自殺せずに済み「惜しかったね」「今度は頑張ったね」と気楽に褒めてくれたと思います子どもが本当は親や先生より賢いことは子どもなら誰だって知っています

「欠点」というのはそんなふうに周りを平和にするものなんです自分よりかけっこの遅い子がいる方がみんなは安心だったじゃありませんかそしてその子に優しくなり「一緒に練習してあげるよ」と言ったはずですかけっこで一番遅い子になるのが心配ですか?戦争中かけっこで一番になるような子は日の丸の旗1本持たされて遠いジャングルに送られそこで機関銃や飛行機に追われて走り回り、75年経ってもいまだに帰ってこないじゃありませんか

「欠点」があって初めて人は物が見えるようになります欠けているところから世界が広がるのです「満点」のような人間になってごらんなさい目が塞がっているのと同じです自分の影すら見えないから威張りくさり他人を馬鹿にするのが当たり前になってしまいます欠けた穴から自分の影をよく見時々その穴から世界へ出入りするのがいいのです

Tai švaru、Koks malonus vaizdas、ダメなんですか? 2

「Apple のある風景−2」  2019

前回ちょっと説明しきれないところがあり補足します本来は「きれい気持ちいい」の中身を考えなければならないはずですが字数の関係であえて触れませんでした

前回の内容を一言で言うと鑑賞者の立場での「きれい気持ちいい」と表現する立場からのそれとは同じものではないということでした。bet、多くの人は鑑賞者的な立場からのまま「きれいで気持ちいい」絵を描こうとしますここでは鑑賞者と表現者の立場が一致していますよく聞く「飾れるような絵を描きたい」という言葉がそのことを示しているように思います自分のことを振り返ってみても確かにそうだったと思います一方で「好きなように描けばいいんだよ」とも言います(私も)そうすると「きれいで気持ちいい絵」が好きならそう描けばいいんじゃない?ということになりますね

論理的にはそうなりますまた実際にも「好きに描けばいい」のだしそういう人が多数ならいずれ(世界も)そうなるに決まっていますなのでここまで来ると前回一般論であるかのように述べたことがむしろ私自身の「偏った」考え方だったということになるかも知れませんなるほど考えてみるとそうかも知れません私は多数決が必ずしも正しいなどとは思いませんが現時点では鑑賞者の視点と表現者の視点が異なる(べき)という人の方が多いのではないかそしてそれは大事な感覚ではないかと感じています

ここまで来るとどうしても「きれいで気持ちいい」の中身を一度問わなくてはならないような気持になります少し急いでしまいますが私はこれを「迎合」と「自然」とに区別できたら良いと思いますがそれを上手に区別する方法を知りません(単語が適切でないかも知れませんご指摘下さい)「迎合」は一つの歴史観「自然」は一つの哲学と言っていいかも知れませんがきっちり分けることは至難です哲学者ならここを疎かにはしないでしょうが私には難しい問題です国語辞典とは違い私の目の前の間近に制作する「○○さん」に直結する意味でなければなりませんそのうえで「迎合」とは何かといえば○○さんにとっては自分の育ってきた環境に自然に「なじむ」ことであるかも知れませんし分類の仕方によっては単に「適応力」と同一視されてしまうかも知れません「自然」もまた「生まれたまま」ということは現実的にはあり得ませんので稀有な自然環境の良い場所で暮らすかある社会的試練を経たのちの「ありのままの自分」という一つの境地にたどり着いた「自然」なのかも知れませんそこでの個別性を細かくより分けて言葉を定義していくことは困難ですが - それでも俯瞰的に見れば一般的な「きれいで気持いい」が幾らかはこれまでの(自然的・人間的)環境に対して迎合的なのかなと偏見を承知の上で感じます同じ水平線上で自然とは(ある意味逆に不自然とも言えますが)より多く自分の身についた迎合性を削ぎ落とした自分自身のこと(人によりけり)と定義します(人生の上で身についた「迎合性を削ぎ落とす」なんて言葉の上でしかできないような気もしますけど)

そのうえで「きれいで気持ちいい」絵を描くのは悪いことなのかという質問に改めて向かい合ってみたいと思います①「きれいで気持ちいい」は初心者の自然な気持 ②「きれいで気持いい」の意味を立ち止まって考える ③それが自分自身の「現在・現実」に合っているならば「善」と信じて迷わず進む  きっと私もそうしてきたのだと思います