アジサイ in ブラック2—反射神経

花の部分(CG)ーけっこう写実的に見えるのではないですか?

さらに拡大(CG)ー実はけっこう大ざっぱです

仕上がりまでの3割くらいまで進んできた途中で気にかかっていたのは「こんな面倒くさいことしなくてももっと簡潔で効果的な方法があったのではないか」ということ手間を惜しむわけではないがまわりくどい方法は時間の浪費ばかりではなく画面を汚し狙い通りの効果を生み出せないことにつながる「簡潔」が絶対にいいのである

反射神経だなそれは—必要な時にタイミングよくピッタリのやり方を選択する「勘」のようなもの

年を取ってくると直感的な閃きが薄くなりそれをじっくりと計画を練り上げることでカバーするようになる(なってきた)これは反射神経が鈍くなってきたということではないか…描いていてふとそう思い当たった

じっくりと練り上げる方法が悪いわけではもちろんない浅はかな思いつきだけでイメージにとびつくよりよほど結果は安定する野球選手の打率ふうにいうと「思いつき」の打率が1割なら「練り上げ」は3割弱というところか打率1割台ならレギュラーは難しいが、3割なら堂々のクリーンアップである普通の仕事なら間違いなく「練り上げ」の方が良いでもアートではどうなんだろう打率1割でもその一本が心に残る魅力的な一本というのがアートの本質なんじゃないだろうか反射神経を研ぎ澄ますにはそのための鍛錬が欠かせないやばいぜ

アジサイ in ブラック

アジサイの葉(CG)

画像が見えにくい・・・申し訳ないのですが今のところここまでが精一杯少しだけ我慢してもらえるとだんだんにうっすらと葉っぱらしきものが(浮かび上がってくるといいのですが)もともと黒い背景に暗い色のアジサイを描くというコンセプトですが画面表示すると思ったより暗い描いている手もとではもちろんずっと明るいのですが

ここまではまだ仕上がり予定の1割にも達していませんここに表示したのは葉っぱの部分だけで花の部分はこれから薄く軽く描いているように見えるかもしれませんが今回は描きこみにこれまでより格段の時間がかかっていますすでに2日目ですがまだ相当な時間が必要です手描きの方がずっと早いのですがあえてCG(コンピュータグラフィックス)で描こうと思っています

仕上がりまでしばらく時間がかかりそうなので時々部分的に見せたいと考えていますわたしにとってもひとつの挑戦です

耳のかたち

「木立ベゴニア」(CG) 絵は本文には「馬耳東風」です

わたしにとっての七不思議のひとつはヒトの「耳のかたち」猫や牛や馬象の耳だとまったく不思議さは無いのになぜかヒトの耳のくるくると丸まったかたちそのかたちへの成り立ち方(進化の合理性)がどうも想像しにくいのだ

耳を音(または空気)の波を感じる器官とすれば耳は魚にもあるもちろん鳥にもある爬虫類にも昆虫にもあるどころかミミズクにさえ?あるという(植物にもあるという学者もいるがここでは深追いしない)魚の耳はその頭の中にある内耳というところがほぼヒトの耳に近い働きをするらしい他にも側線という体の両側鱗の下を頭から尾まで一本の線のようにつながった感覚器官で微妙な水圧の変化などをキャッチするのだがここでも人間の声ぐらいは感知できるらしいほかにも浮き袋で外部の音を増幅させて体内の神経を通じて内耳で聞き取る魚もいるというから魚は何個も耳を持っているともいえる

硬骨魚類には頭の中に耳石というのがあってこれで水中での姿勢を保っている余談だが化石ハンター岩石ハンターならぬ耳石ハンターという趣味をもつ人たちが魚種ごとにかたちの異なるその耳石を収集そのかたちの美しさを自慢しあうというマニアックな世界もあるらしい—ヒトの三半規管にも(ヒトだけでなくおそらくほとんどの動物に)耳石がありほぼおなじ機能を持っているこれが剥がれ落ちたりすると眩暈(めまい)が起きるメマイしながら泳ぐような魚ではエサを捕ることなど当然できない「人間に生まれて良かったあ」と「めまい外来」のあることを神に感謝したくなる

鳥の耳は目立たない。Bet、羽毛を搔き分けてみるとヒトの耳とほぼ同じように頭側にぽっかりと穴が開いているミミズクというフクロウの仲間は鳥の中では例外的に耳が外に突き出しているそれがミミズクという名の由来になっているのだが眼よりも音を頼りに獲物の位置やサイズなどを判断する生活様式から考えると空気抵抗を割り引いてもそれなりの合理性があるだろう—いずれにせよ動物の行動様式や生態を考えればそれらの耳のかたちの成り立ちがそれなりに納得できるような気がする

Bet、ヒトの耳はどうしてこのようなかたちなのか勾玉(まがたま)に6というアラビア数字(我々が日々最もお世話になっている数字)を二重に掘り出したようなかたち(漫画の神様手塚治虫の登場人物の耳)にどんな合理性があるのだろうか人物スケッチをするたびに感じる長年の「不思議」である