
「感動する」って、よく言われるし、よく聞く言葉でもある。わたし自身は、つとめて「感動」という言葉を “使わないように” 、使わないようにと、意識してきた。感動という言葉は、わたしにとって「命」という単語に近い重みを持っているので、そうそう簡単には使えなかったのだ。
Men、人間なら誰しも感情を持っている以上、「感動しない」なんて有り得ない(でしょ?)。そういうこともあって、「感動」ってことを、あらためて考えた。
個人的な感動体験だけで論評するのも問題だとは思うけれど、他人の「感動の中身」についてどうこう言えるほど、わたし自身に心理学的、医学的知見がないので、自分自身をモルモットに、話を進めさせていただくことにする。
よくよく、自分の「感動体験」を思い出してみると、その直前では「心の状態がフリー」だったような気がするんです。「感動」には、ある種の衝撃を受け入れる「心の余裕」、隙間があったような気がするんですよね。
言いたいことは、すでにお察しのとおり、「心の余裕」ってことですが、それは「(生活の)余裕があれば感動できる」って意味じゃないことなど、言わずもがな。この(難解な?)ブログを見てくれている人に、そんな馬鹿などいるはずはない。men、もしも「体力的に限界ギリギリだったらどうなんだろう?」とは思っていたから、そういう体験記(談)にはなるべく接しようと心がけてきた。
人間って凄いです。命が失われるその瞬間まで、「感動」を述べた人々の記録は、山ほどあるんですよね。人間の「感動するさま」に、あらためて感動する思いです。