変相-絵画はまだ終らない

同じ紫陽花(あじさい)の試作の中から3枚掲示してみる仮に上から順に13と呼ぶことにするが描き方は少しずつ異なっている。3枚とも同じ用紙同じ光線条件で写真を撮っているはずなのになぜか1枚目だけ紙の色が違う当然花の色も23とは変わっているはずどうしてでしょうね

1はデッサン主体2は色彩主体というよりほとんどデッサンがない3はほぼその中間こうやってみると最も「絵画的」とわたしが感じるのは2アジサイという「植物種」から離れて色(明暗を含む)とかたちだけの「造形本位」の度合いが強いから並べているからアジサイだと推測されるけれど2を単独で見たらアジサイと認められるかどうかは半々だろうもう一歩押せばもう誰もすぐにアジサイとは判定できなくなる

これはわたしの(いま現在の)感じ方であって見る人はそれぞれ勝手に感じればよいただその場合でも先に述べたような(1はデッサン・・のような)分析的な区別はしなければならない(その分析的なファクターは個人個人が自由に設定してよい)なぜならそれが「ものの見方」そのものだからだそのファクターが独創的であるほどユニークな視点(分析力)を持っているということだと思うこの場合は個人個人のフィルターと言ってもフルイ(篩)でも色眼鏡と言い換えても内容は変わらない

同じモチーフをたとえばこんなふうに表現を変えて制作してみることは絵画の質を深める有効なプロセスになる表現(法)ではなくアイデアの方を変えることも昔からよく行われている(絵画では変相・ヴァリエーションと言われるのがそれ音楽の「変奏」も同じ意味ではないだろうか)
 絵画ではモチーフ本位の「何を描くか」とコンセプト・表現本位の「どう描くか」の論争がかつてあった(らしい)わたしはそのあとの世代だがその時代のコンセプトとは別に若い頃は「何を描くか=テーマ」が大事だと思っていた当時は絵画が社会的メッセージとしての力をまだ持っていると思っていたから
 今は?―わたしは「絵画の歴史的生命」はすでに尽きたと考えているけれど同時に絵画はまだまだ終わらないとも思っている(残光?)説明は省略するがそこが人間とAIまたはロボットとの違いだと思っているからとだけ言っておこうかな