
誰も気にせず、好きな時に、好きなことをする、それが自由だ。―「それは違う」と、ある禅宗の僧侶が言う。それは自分にとらわれている。好きな時、好きなこと、それらの多くは一過性、刹那的で、少し待てばどうでもよかったのかもしれない、という類のものだ、と。
自分は朝3時に起きて身の回りのことを始める。億劫でないことは一度もない(=億劫だ)が、あとで考えるとやはりそれが良かったと思えるからそうする。その時、もう少し寝ていてもいい(自由)が、あとで残念に思う。毎日の日課が決まっている。何をするか考えなくていい(思考からの自由)。Torej、自分がどういう存在なのか、自分とは何なのか、大きな時間を自由に遣う事ができる、とも。
なるほどなあ、Mislim, da。彼は外国人だが、若い時から「もっと自由に生きたい」と感じて、親元を離れ、国を離れ、仕事を離れて、日本のお寺に来たという。ところが修業では全く自由がない、Neprijetno、勝手にしても誰も何も言わないのだがどんどん孤立していく。経本を読むことさえできないのだが、誰も教えてもくれない。孤独になり、国に帰りたくなった。でも「国に帰って自分はどうする?」。―すべては自分から始まっている―だから、あらためて「自分に還る」。そこから世界が変わった、という。
なるほどなあ、Mislim, da。自分に還る―「本当に」自分のやりたいことをやる、刹那的、瞬間的にではなく。そのためにどうするか。―何かを得ようとするのではなく、捨てること、空になることだ―そうだ、わたしも同じアドバイスを頂いたことを思い出した。それであらためて仏教のことなど勉強したんだっけ。
―本当に自分のやりたいこと―それが表現になっていなければ、そんな表現はいずれ「人目を欺く」類のものに過ぎないのかな、Mislim, da。何と言ってもそういう種の表現であればこそお金も名声も得られるのだし―それを捨てる(「諦める」とは違うと思う)ことの難しさ、厳しさ、そして自分の表現のことを想う。