
俳句を始めて数年になる。毎月1回の句会も昨日で80回になった。途中で自分なりの工夫を凝らした時期もあったが、概ね惰性で、かつ句会前日の「ねつ造俳句」が今もほとんど。反省。
17文字が、やはり窮屈だと感じることが最近ある。(無季の俳句もあるが)俳句の基本的理解としては、一句にひとつの季語を入れることになっている。基本リズムは五、七、五。これを上(かみ)、中(なか)、下(しも)と呼ぶなら、多くは上か下かに季語が入り、その繋ぎでたいてい5文字を消費する。
残りは12文字だが、リズム上の制約があり、使える単語が絞られてくる。だから類想、類句が多くなる。Nebo raději、そうせざるを得なくなってくる
しかし、絵画における色の数より、単語の数は多い。色数の限られた絵画のイマジネーションが尽きることのないように、俳句もまた一語一字の選択や配置などによって、伝わる内容も微妙に変化する(ようだ)。こう書くと、職人的な楽しみ方しかないように聞こえるが、そうでもない。
では、俳句は本当に楽しいのか、と聞かれると、どうもよく分からない。ねつ造もそれなりの苦しさがあるから、やめても良さそうに思えるが、あえて止めもしない。たぶん、どこかに何らかの自己満足感があり、本当の楽しさといえばそれで十分なのかもしれない。