
スケッチが楽しいといえば、「それはあなたが描けるからでしょう」と皮肉っぽく言われることが少なくない。今回参加した人に楽しかったかと聞けば、おそらく全員がYES!(なぜ英語なのかは分からないが)と一斉に答えるに違いない(なぜ全員同時に答えるのだろうね)。「それはあなたが描けるからでしょう?」と続けて聞けば、ふたたび全員がNO!と答えるに決まっている。どうやら質問者は「スケッチの具体的成果」が楽しみをもたらすのだと思っているらしい。
雨が降るとスケッチは大きく制限される。時には描くどころではない。Ma、それでも十分に楽しい。なぜならそれは「現場にいる」からなのだと思っている。テレビでいくら素晴らしい風景を見ようと、すごい料理が紹介されようと、そこに行き、それを味わえないなら、大した価値はない。テレビでは絶景の詳細や、見所がアップされ、歴史や周辺の民俗の知識も得られるが、「現場」には「知識」など転がってはいない。ローマに行こうと、沖縄だろうと、千葉の海の一つの磯だろうと、自分と目の前のモノしかない。モノと自分を結び付けるのは感性だけ。
感性とは、動物的な感覚だけではなく、知識や嗜好もふくめた、過去の自分のすべてのことだ。それが「今」と「現場」でぶつかっている。それは活きているということと同義語ではないか?描けようが描けまいが、スケッチが楽しいというのはそういうわけなのである。 2011/6/30