மூன்று நபர்கள் மூன்று நபர்கள்

T・U さん
H・Kさん(修正前)
K・Sさん

水曜油絵クラスの作品です三人しかいませんが三人ともそれぞれ個性的で良いと思います上手に描くより自分の内面により近いことを表現(するつもりはなくても)しているのが素敵だと思っています

Tさんの場合本人曰く「ここからどう進めたらいいでしょうか?」わたし「もうこれ以上描くところはないよ」まだ描き始めたばかりで本人はこれから描き込んでいくつもりでいたらしいのでちょっと拍子抜けした感じだったでしょう
 実際作品を拡大して見て頂ければ解りますがのびのびしたタッチと気負わない色彩とがマッチして絶妙の状態になっています。ஆனால்、説明要素が非常に少ないので具体的にどんな木なのかどんな草むらなのかは観る側の想像力次第になっています「枝のない木」ではなく「あなたが枝をつけてみてください」と言っているわけですねあなたがすべてお膳に調えられたご馳走を喜ぶ人か多少は自分でアレンジできる味わいを好むひとかでこの作品の評価はまったく変わります評価に迎合しない選択がこの作品です

絵画ではたとえば1個のりんごをモチーフに描く場合①そのリンゴがどういう種類状態であるかを描写することで作者の技量などをアピールする ②そのリンゴを作者がどうとらえたのか作者の感受性を主体に表現する の2通りがある(そのどちらが正解ということはできない)①はどちらかといえば古典的伝統的なものの見方考え方であり②はより現代的な表現思考に属するという考え方が一般的です
 わたしの絵画指向は基本的に②でそのうえでわたしにとっての絵画とは「画面の表面だけで」新しい世界像を作り上げることですというとやたら大言壮語に聞こえてしまうけれどそうではなく画面上の絵の具の発色とかタッチそのものが絵画の本質ですよということです。மேலும்、「表面だけで」という意味は「作者の内面やプロセス」などどうでもいいということではなく発色のことを考えたり色の選択や筆の動きにすでに作者の経験・思考や身心の状態が反映されているという意味です
 と同時に画面という視覚の完結性についても述べたものです世間的に立派な人が描いたことと絵画性とは無関係だと言っているだけのことですが(特に日本の)マスメディアなどはむしろこちらの方にこだわりますから注意が必要です古典絵画の巨匠カラバッジョは殺人犯としていわば指名手配され逃走しながら名画を描き残しているのですが日本のマスメディアなら「殺人犯」という時点で絵画の業績などは一顧もされなくなってしまうでしょうそれとこれとは別という単純なことなんですが
 ①②いずれを選択するかは単に意思の問題だけではなく本人の成長過程での社会的環境や個人的な関心や嗜好生理的条件など様々な要因が絡み①から②へ変わったりその逆になったりすることも例を挙げるに困りません

 H・Kさんの作品は具体的で何が描いてあるかは誰でも解ります。ஆனால்、何が描いてあるかは重要なことではなくこの全体を通してH・Kさんの特別な「静けさ」を感じて貰えればいいのですユリの種類だの遠近法がどうだのと言っているようではそこへはたどり着けませんそういう説明をスパッと捨てていることが「経験の力」なのです
 K・Sさんの作品は枯れかけた草むらの一隅をクローズアップしたような画面ですそのまま描いたようなまたは抽象化されたようなどちらとも言い難い画面ですね具体的ありふれたなものも見る距離や見方が違えばこれまでと違う世界が現れてくると作者は感じ考えているわけですねその感じ方考え方をできるだけ簡潔に表現するとしたらあなたはこういう表現法以外にどうしますか?と見る人に(自分自身にも)問いかけてもいるわけですね
 そういうことが意識化されているという意味で、3点ともかなり高次元の作品だとわたしは思っています残念なことは作品が高次元になればなるほど一般の人から離れ評価を失っていくのが現状ですいたるところで素晴らしい感性を示す日本人なのに芸術などに関しての国民的な教養がそれに釣りあっていないと日々感じています。ஆனால்、個々の力ではどうすることもできません

வாழ்க்கையின் வலிமை

〇の部分が再生されたところ

9月15日のこのブログ「素手」の項で水彩のカボチャを描いて載せた。உண்மையில்、そのカボチャはちょっとネズミに齧られていたのである描く数日前に農産物直売所で買ったものだったが玄関床に転がして置いたら齧られたのだった

齧られた部分は裏側になるように隠して描いたのだが、9月20日にもう1枚描いてみる気になってアトリエに持ち込んだらなんとその部分が “修復” されているではないか!もちろんカボチャ自身の “自力” である「カボチャは生きている」のである怪我したあとのかさぶたのようにちゃんと再生細胞が働いている蔓から切り離されどこからも栄養が来ないのだから自ら蓄えた中からエネルギーを使って修復したんですねちょっと感動してしまいました

ஒரு குழந்தையாக、実家で犬を飼っていたそれがまだ子犬だったころ急に表に飛び出してトラックのタイヤに巻き込まれたことがある運よく轢かれはしなかったが冬だったので車はタイヤチェーンを巻いていてその端が子犬の眼と鼻の間を激しく打った子犬は家に飛び込むなり下駄箱の隅の暗がりに縮こまってしまった
 餌の時間になっても出てこないクーンと苦しそうに泣くだけで2日くらいはそのままで獣医などいない田舎のわたしたちにはどうすることもできなかったようやく空腹に耐えかねて下駄箱から出てきた子犬の左目は真っ白に濁っていて顔も腫れているように見えた目薬くらいは差したかもしれないが家族全員失明は必至だと感じていた。எனினும்,、日が経つにつれその目がだんだん澄んできて普通にものが見えるようになった(と思う)その生命力(回復力)に驚いたことをよく覚えている回復まで2.3ヶ月かかったかもしれない

自然の風物が好きなので動物をテーマにした雑誌なりYouTubeなりを見る機会がある(捕食の残酷さをいたずらに強調するものもありそういう作者の視点そのものに辟易することも少なくないが)そこでいつも感じるのは人間以外のあらゆる野生の動植物には「医者がいない」ということである瀕死の重傷を負おうが病気になろうが自己の再生能力以外に頼れるものは何もない医療の届かない人々はこういう“野生” に近い状況に置かれているということになる医療や健康食品などの発達は大いに喜ばしいことだが本当の元である生命の力をわたしたちは食べているのだなあとあらためて思うことだった

ときどき詩人

キャンバスからCGスケッチ

ときどき詩人になるのがいい、நான் நினைக்கிறேன்。世の中動くのが少しどころでなく早すぎる自分の周りを壊れた走馬灯のようにグルグル早回しで回っている感じがしてならない眼を閉じるかあるいは目の前の小さなものだけをぼんやり眺めるそんな時間が必要ではないかと思う。இல்லை、நீங்கள் அதை செய்யாவிட்டால்、実は自分が死んでしまっていることにさえ気づかないまま死んでいるかも知れません

「時々詩人になるのがいい」というのは、நிச்சயமாக、詩人がのんびりして暇そうだという意味ではありません単にのんびりリラックスすればいいというわけでもありません「詩人」はもちろん比喩ですが画家でも音楽家でも運動家(スポーツ)ஆனால்、何でもいいというわけではありませんやはり「詩人」がいいのです

詩人は自分の感覚や周囲のことがらを言葉に置き換えていきます。”言葉に置き換えるということが重要ですわたしたちは言葉で自分の考えをまとめあげているからです(そういう意味では数学者(科学者)でもいいかも知れませんがわたし自身が想像できる範囲を超えています)

あくまで比喩ですから実際に詩を書く必要はないのですがほぼ詩を書くような気持にならなくてはなりませんそれが難しいのは確かですがそれが出来なければ「走馬灯ぐるぐる」をずっと見ているしかありません「詩人」は唯一そこからの脱出口なのですから
ஆனால்、なぜ詩人?とあらためていうとなぜ脱出するのかその結果どういう意味があるのか(あったのか)詩と走馬灯の関係などを言葉にして記憶しておく必要性詩を作らなければならないからです・・分かったような解らないような疲れていますね