いよいよ絵を描かなくっちゃ

「デンドロビウム」 水彩

いよいよ絵を描かなくっちゃならない義務ではない仕事でもない自分の人生としてのまとめとして絵を描かなくっちゃならないんです

今までもたくさん絵を描いてきたし今も描いてはいるのですがどうも「自分の絵を描いた」って感じがしないんですこのままじゃ自分の絵を描かないままあの世行きだなーなんて考えるトシになってきたんです自分をフジミ(富士見×不死身〇)だと信じていたこのワタシがですよ

No tak、これまでの絵は何だったの?ってことになりますよね“かなり手前味噌” になりますがこれまでだって「他人の絵」を描いてきたわけじゃあないはずだしいま自作を見ても自分の世界観がそれなりに絵の中に込められているとは思います(これを「独りよがり」というのでしょうが)。ale、何か足りないんです
 良い絵を描きたいというのとは違います「良い絵」が描けたと自分が思っている時が一番ダメな絵を描いている時だってのはこれまでの人生で深~く味わってきたからそんな次元はもう卒業しました願うのは「自分にもこんな世界があったんだ」or 「もうこれ以上は無理だぜ」ってヤツかな

それを描いた直後に死ぬってのはまるで時代劇ですがアイツは昔の人だからとそこは大目に見てもらって「この人があと数年生きていたらもっと面白い絵を描いただろうなー」と想像したくなるような絵を描いて死にたいんですべつにそういう評価が欲しいわけではありませんそう思えるような絵を描きたいという気持あの世へ持っていきたい一枚ですね

"Obrázek" a "něco podobného obrazu"

Akvarel "Bud - German Iris".、pero atd.

To nakonec vede k otázce: "Co je malba?"。``Něco podobného malbě'' = ,,není obraz''、Je to proto, že otázka, co je obraz, je druhá strana otázky.。

Hlavním tématem je obrázek.、Bylo by jednodušší uvést příklad sochařství.、já to udělám。Sochařství = trojrozměrné = sochařství、ne? Auta jsou trojrozměrná、nikdo tomu neříká sochařství。Propracované a krásné jsou i kabelky ve výloze.、Sochou bych to nakonec nenazval.。Ale、Pokud by sochař vytvořil tento tvar z bronzu, bylo by to nazýváno sochou.。Stejně、Pokud je kabelka vyrobena sochařem, je to také socha.。Nezáleží na materiálu, jako je kov nebo kůže.。No tak、Je něco, co vytvořil sochař, socha? odpověď je ano、je。

Jeden z předních současných malířů、Gerhard Richter (Německo) řekl: ``(Pro mě) vše, co oko vidí, je obraz.''。V tom případě tomu neříkejte ``něco, co připomíná obraz.''、Není v pořádku říct, že je to všechno obrázek?、Myslím, že ano?。Jde o to、Nemá smysl rozlišovat mezi obrazem a něčím podobným obrazu.、To říkám、Protože je to Richter。jako on、Je jen velmi málo lidí, kteří sledují rozdíly mezi malbou a nemalbou.。obyčejní lidé jako já、obyčejní lidé musí více přemýšlet。

Jako malbu poznávám i obrázek nakreslený v písku.。Přijímány jsou i obrázky nakreslené ve vzduchu svítilnou.。Pokud to udělá sochař、Anpan je také socha.、Je to malba, protože ji kreslí umělec.。I když to učitel ve škole nakreslí, nestane se z toho obraz.。Z toho učitele se stal „malíř“、Poprvé se stává „malbou“.。"Malíř" v tomto případě neodkazuje na sloupec povolání.、ta osoba je osobní、Jsem „malíř“ jako mysl.。pokud se nestaneš umělcem、nemůže vytvářet umělecká díla、a tak to cítím。

"Příjemné obrázky" -2

「オオカメノキ」水彩 F6

現代では簡単な文をいくつか綴るだけでソフトが “original” の絵を描いてくれます売ろうと思えばそれを売ることもできますそれを売るためのプラットフォームにも事欠きません欲しい人それを見るだけの人とも少なくとも外形上はこれまでの油絵や水彩画と同じように、ano、もっと簡単に「楽しみ」を共有することができます

「観る楽しみ」という点で言えば浮世絵版画を買いふすまや屏風に貼り付けて楽しんだ江戸の人々美術館前に長い列を作って一目名画を見ようとチケットを握りしめる人々もベッドに寝そべりながら多くの人とチャットでAIで描いた絵を共有する人々もそれぞれ自分に合った(選択肢があろうとなかろうと)やり方で「楽しむ」ということに変わりはないのかも知れません

AIで描く絵は「統計」を基に生み出されるものであることが理論上はっきりしています筆で描く絵は「感覚」を基にしています基にするものが一見水と油のように異なったものに見えますが感覚は経験とも結びつき経験は(ゆる~く)統計とも関わっていそうでもあります統計上の一つ一つの画像データの中にも個人的感覚や経験が反映されているでしょうからわたしが感じている以上に実際は近いものなのかも知れませんAIが極めて短期間に簡単に社会に受け入れられ始めているのもそういうことなのでしょうか

Ale、alespoň já、「描く楽しみ」を AI と共有できません理由をよくよく考えてみるとAIには「(生みの)苦しみがない」からかもと思い当たりました「楽しみ」を共有する話をしているのに「苦しみ」の共有を持ち出すのは矛盾かも知れませんがそれは「描く楽しみ」の不可分のパートとして確かにそこにあるのです見るだけの人にも作者の苦しみを想像できるような何らかの経験を持っている。Proto、より深い共感が生まれていたそんな気がします