川のある風景 車窓から 「元荒川風景」 水彩 上の写真は、東京へ絵を運ぶ時にいつも通る、国道4号線にかかる橋からの車窓風景。絵になる場所だなと直感するが、車を降りて取材したことはない。あらためて取材に出かけたらきっと収穫があると思いつつ、その時が過ぎると次の機会まで思い出すこともなかった。 取り立てて「ここが良い!」と強調するようなところがないのがいいのかもしれない。「穏やかな日常」の表現に適当な場所、Immagino che significhi。世界は至るところ戦火がひろがっているし、日本の中も災害やSNSなどを使った詐欺事件などで気持ちが落ち着かない。「絵になる場所」、と思った時から10年は経ったかもしれない今になってこういう風景を描くのも、あながち年のせいとばかりも言えない気がする。
春 ホトケノザ オオイヌノフグリ 羽化-ペン 今日は23度まで気温が上がった。春というより初夏に近いような日差しで、持って行った帽子、サングラスが役に立った。Tシャツでウォーキング。ジーンズが汗で脚にまとわりつくような感じがした。3日連続のウォーキング。小さな土手を挟んだ川の向こうでは少年野球の練習試合?が2組。昨日も2組やっていた。駐車場は親などの関係者の車で一杯。近くの小学校のグラウンドでも別の子どもたちが練習をやるなど、絶好の野球日和だったようだ。 市営の釣り堀では小学生がデビューしたらしく、まわりに常連の爺さん、婆さんが集まった真ん中でヘラブナの竿を下げている。珍しいこと。長閑なものだ。足元にはホトケノザがだいぶ前から(ホトケノザを真近にみると、結構変わったかたちの花です。Anche、その名の由来も納得できますよ)咲いている。最近は青く可憐なオオイヌノフグリ、ハコベが増えてきた。ベニシジミはもうとっくに見たが、今日はモンシロチョウも飛んでいた。春だなあ。桜はまだかいな。
「あの世」のはなし 窓からの眺め ペンスケッチ あの世から、ついさっき還ってきました。文字通りの「生還」です。「いつ死んでもいい」とか「早く死にたい」などと何度も繰り返し言葉にしてきたが、これからはちょっと慎もう。ゾッとするような怖ろしい世界をチラッと覗いてしまったから。 「あの世」へ実際に行ってきたわけではない。IO、入り口付近をチラッと眺めてきただけだから、「生還」などとたいそうな言葉を使うのも本当はおこがましいが、実感としてはそういうものが確かにあった。 それは、わたしたちの棲む家々からほんのわずかの距離のところにあり、いやむしろ家々のあいだにあり、多くの人々が足繫く通う場所の中にもある。そして誰にも簡単に見分けがつくにも拘らず、多くの人はそれに気づかないふりをしているらしい。そこでは人は既に立ってなどいない。ほぼ全員が仰向けに横たわり、静かに息をしている。日に何度か起き上がっては、どこからか運ばれてくる飯をそそくさと食い、食ってはすぐまた仰向けに横たわる。そこは気づかぬほどゆっくりと動くベルトコンベヤーになっていて、何日か何週間か何か月後にはもう誰の手も届かない、引き返すことのできない「あの世」への動脈になっている。 そこから振り返って見た「この世」は、今日は午前中雪が舞ったりする、荒れた天候だった。傘を差し、風に抵抗して歩くには、脚や腰の悪い人には辛いかも知れない。あの世の恐るべき平穏さに比べれば。ma、それが生きているということだ。痛いことも苦い思いも様々な矛盾も、それがまさしく生きていることのように見えた。 ほんの入り口に入ったところから「この世」を振り返って見た、「土壇場」のスケッチを掲げた。