
まるまる3か月ぶりに書きます。今日は日曜日ですが、やることがいっぱいあって(しかも、ほとんどが「作業」)、すこし早起きしましたが、体調はいいので、今日の分はできるでしょう。
皆さん、ご無沙汰しました。体調でも悪いのかとご心配下さった方もいるかもしれません。ご迷惑をおかけしました。皆さんは、きっと穏やかにお過ごしくださったことと拝察いたします。また、よろしくお願いいたします。

まるまる3か月ぶりに書きます。今日は日曜日ですが、やることがいっぱいあって(しかも、ほとんどが「作業」)、すこし早起きしましたが、体調はいいので、今日の分はできるでしょう。
皆さん、ご無沙汰しました。体調でも悪いのかとご心配下さった方もいるかもしれません。ご迷惑をおかけしました。皆さんは、きっと穏やかにお過ごしくださったことと拝察いたします。また、よろしくお願いいたします。

一日中憂鬱で、絵を描く気力も湧かなかった。
教室の仲間がまた一人亡くなったと連絡があった。1月末には退院できるかなと、思っていたが、2月になっても復帰できずにいた。いつも意欲的で、新しいことにチャレンジする人だった。81歳。心からご冥福を祈りたい。描きかけの絵があり、退院してきたら、最終のステップを体験してもらいながら、完成へと行くつもりで準備していた。
最近、わたしの周りでは土木工事、解体工事がやたらに目につくようになった。時期的なものかもしれないが、ここ数年では見られなかった多さ。なにかが、動き始めているのだろうか。
昨年で、銀座等で開くグループ展などから一切手を引いたことは、前にもお伝えした通りだが、時間の流れと、無常を繋いでみると、もっと正直に自分の絵を描かなくては、Mislim, da。人に見せることが絵の宿命ではあるけれど、別にそこで共有だの、共感だのを求めなくてもいいのだ。絵の評価など、どうせろくなものではない(今年、ある展覧会の審査員をするのだけれど)。褒められようが、けなされようが、せいぜい五十歩百歩だ。そんなのに惑わされず、出来るだけ無心に描くことが、幸せへの道ではないかと思う。わたしは絵のことしか知らないが、好きなことに無心になること、自分を澄ますことに憧れる。

ありふれた風景だが、10年後も「ありふれて」いるかどうかはわからない。住まいの形態は時代とともに変わるだけでなく、戦争などで一気に変わることも、わたしたちはいま目の前にしている。
平日の午後、平和な団地。だが、ひっそりとして人影はほとんどない。時どき車が通り、ときどき自転車に乗った高齢者がよろめきながら過ぎ去り、カートにつかまった買い物帰りとみられる老女が、ゆっくりアパートの入り口に向かっていく。
関東の冬は陽ざしがある。緑の木の葉がきらきらと輝いている。暖かい室内から外を見ているとまるで春のようだ。Ampak、子どもの声は聞こえない。人々の話し声も聞こえない。平和な、ありふれた風景。