遊びでも「金」すべてを捧げても「金」

陸に上がったイカ釣り船

矛盾だらけのオリンピックももう後半ここまでで強く感じたのは新しい種目(特にスケートボードサーフィン)は実に楽しそうで、இது கிட்டத்தட்ட விளையாட்டின் நீட்டிப்பு.、பாரம்பரிய நிகழ்வுகள் மிகவும் ஈர்க்கக்கூடியவை、நான் எல்லாவற்றையும் தியாகம் செய்தாலும், இலக்கு இன்னும் தொலைவில் இருந்தது.。"விளையாட்டின் நீட்டிப்பு" நிச்சயமாக நிலை குறைவாக உள்ளது என்று அர்த்தம் இல்லை.。மன நிலையைப் பற்றிய கதை இது。

オリンピックに出場するレベルのアスリートになるまでには幼いころからの本人の才能・努力だけでなく家族ぐるみでのとてつもない犠牲が伴うとよく聞く。அதனால்தான்、いくつもの困難を乗り越え「栄光のゴール」へ向かう「試練物語」がつきものだそれがわたしたちを感動させもするのだが新しい種目の選手たち特にスケートボードなどにはそんな物語は似合わなそうだあっけらかんと楽しく友人たちと遊びながら練習しているいるうちに金メダルまで行っちゃった、அப்படித்தான் தோணுது。それが実に爽快でスポーツの原点ってこうじゃないかなと思わせられた

日本の選手たちを見て特に強く感じるのは「悲壮感」だ笑顔でさえも「笑顔!」とコーチに指導されている光景を見る学校スポーツを見ればわかる勝つことが大事でそのために厳しい練習を強いる強い学校ほど日常生活まで縛っていく「勝ち癖をつける」ことで生徒たちも自分が向上したと感じ厳しいスパルタにも耐えていけるようになる。ஆனால்、考えてみるとそれは一種の「洗脳」だと言えなくもない日本中の学校でこんなことを何十年も続けているうちに国民全体が「頑張り主義」に洗脳されてしまったのかもしれない

スケートボーダーたちはたぶんそんな「部活」だったら辞めているだろうと思う好きだからやっているし好きだから研究もする強制されるのは嫌だルールも自分たちが本当に楽しめるようにみんなで作っていけばいいじゃない彼らの楽しそうな笑顔はそういっているように見えるスポーツの世界が遊びとくっついて変わり始めるといいな

CGスケッチ練習

海辺のまちーCGスケッチ

CGによる「鉛筆スケッチ」を試みているこれまでも何度かアップしているがこのコロナの夏休み中にもう少し慣れ進化させたい

このスケッチは現地でペンで描いたものを見ながらCGで描いているスケッチブックだろうとパソコン上だろうと描くこと自体はは難しくはないがそれをパソコン上でいろいろな媒体につないだり(たとえばこのブログにアップしたように)他のメディアに利用するなどの展開が苦手というよりどうしたらいいのか五里霧中だ

描くだけならパソコン上の方がずっと楽重たいスケッチブックを持ち歩かなくても済むしペンや絵の具(水彩の場合は特に水が問題だ)をいくつも用意しなくて済む。ஆனால்、スケッチの醍醐味はやっぱり現地の空気を吸うことその風に当たること、கானா。海辺にはいろいろな匂いもあるそこに住む人たちの会話を聞くのも楽しい途中のお店で飲み物を買って店の人と話すCGには一切それがないこのスケッチもアトリエでクラシックなど聴きながら描いた

描いたものを見ればそっくりでもまったく別の世界だどちらもできるようになりたいと思う

தங்கப் பதக்கம்

ある日の下北半島‐CGスケッチ

オリンピック試合後の選手インタビューを聞いているとどんな選手でも絶対に金メダルが欲しいんだなと感じさせられる

(現在の)自分の限界を越えて何かに到達するには誰しも強い動機を必要とする必要度が強いほど努力もするしそのための我慢もできるその極限のかたちをぶつけ合う最高の場がたぶんオリンピックなのだ「他人に勝つ」という歓びは本能的なものだろうがそれを増幅し続ける人生とはどんなものなのかわたしには想像が及ばない銀でも銅でもすごいことだと思うけれど彼らにとって金メダルとはそれらを何十個足しても替わりにはならないものなのだなということだけは分かったような気がする

金メダル=1位なら1位の称号でも同じことかといえばきっとそうではないだろう明らかな「物的証拠」として「金メダル」が欲しいのだ金メダルを齧るポーズがちょっといやらしいと思っていたがもっとも敏感な口回りの神経で金メダルに触るその物質感が(精神衛生上)必要なのだろうと思いなおした

気楽に見たり聞いたりするだけのわたしにとっては頑張って自分が何かを得ればそれで十分ではないか自己新記録を出すだけでも立派だなどと思うそれが間違っているとは思わないがそんな風に考えている選手は(少なくともオリンピック選手には)一人もいないということが分かった