Where it’s at 素敵な場所

「少年と犬ー冬」2002年 F100 テンペラ書道用紙など

素敵な場所は今はどこにあるんでしょうか?目の前に摘んできた野葡萄を置いた爽やかな高原のロッジ?渋いチェロのレコードが回っている歴史ある街角の中のカフェ?静かに降る雪を見ながら暖かいミルクコーヒーを飲んでいるアトリエ?嵐の過ぎるのを待って寝そべっているテントの中?いつでも戻れると思っていたのにいつの間にかどれもとても遠く感じる場所になってしまった

その場所はいつでもその場所にあり友人たちもそこで楽しく宴を楽しんでいるそこに自分もいるそんな素敵な場所は今はどこにあるんでしょうか

現実にそんな場所はいくらでもありその気にさえなれば誰でも(たぶん)行くことができる。a、そこへ行けばきっと想像以上のことが目の前で起こる旅の面白さはそこに尽きる。Posledních pár let、旅らしい旅をしなくなった途中で歩けなくなったらどうしようそんな心配が先にたって旅に対して積極的な気持が持てなくなってしまった東西南北どちらへでも電車で1時間も乗れば机の前の窓から見る風景と違うものを見ることはできるそのうえ予想外のことは必ず起きるそれが分かっているのに出かけないなんてどうしちゃったんだろう

脳ミソに無駄な脂肪がつき足腰からその分の筋肉が無くなって体重は差し引きが釣り合って “健康” 的だなんてそんなものが一体何だというのだ動物は動けなくなったら餌を摂ることはできず死ぬしかない動くことが動物だという単純過ぎる意味でウオーキングなどが奨励されているのではあるけれど動くだけなら機械も空気も動いてはいるましてただ歩くことが目的の動物などいるはずもない
 素敵な場所はどこにあるのかどうやったらそこに行けるのか考える脳の足腰を鍛えるために夢の中を歩く

 

生命の逞しさ

〇の部分が再生されたところ

9月15日のこのブログ「素手」の項で水彩のカボチャを描いて載せた。vlastně、そのカボチャはちょっとネズミに齧られていたのである描く数日前に農産物直売所で買ったものだったが玄関床に転がして置いたら齧られたのだった

齧られた部分は裏側になるように隠して描いたのだが、9月20日にもう1枚描いてみる気になってアトリエに持ち込んだらなんとその部分が “修復” されているではないか!もちろんカボチャ自身の “自力” である「カボチャは生きている」のである怪我したあとのかさぶたのようにちゃんと再生細胞が働いている蔓から切り離されどこからも栄養が来ないのだから自ら蓄えた中からエネルギーを使って修復したんですねちょっと感動してしまいました

Jako dítě、実家で犬を飼っていたそれがまだ子犬だったころ急に表に飛び出してトラックのタイヤに巻き込まれたことがある運よく轢かれはしなかったが冬だったので車はタイヤチェーンを巻いていてその端が子犬の眼と鼻の間を激しく打った子犬は家に飛び込むなり下駄箱の隅の暗がりに縮こまってしまった
 餌の時間になっても出てこないクーンと苦しそうに泣くだけで2日くらいはそのままで獣医などいない田舎のわたしたちにはどうすることもできなかったようやく空腹に耐えかねて下駄箱から出てきた子犬の左目は真っ白に濁っていて顔も腫れているように見えた目薬くらいは差したかもしれないが家族全員失明は必至だと感じていた。nicméně、日が経つにつれその目がだんだん澄んできて普通にものが見えるようになった(と思う)その生命力(回復力)に驚いたことをよく覚えている回復まで2.3ヶ月かかったかもしれない

自然の風物が好きなので動物をテーマにした雑誌なりYouTubeなりを見る機会がある(捕食の残酷さをいたずらに強調するものもありそういう作者の視点そのものに辟易することも少なくないが)そこでいつも感じるのは人間以外のあらゆる野生の動植物には「医者がいない」ということである瀕死の重傷を負おうが病気になろうが自己の再生能力以外に頼れるものは何もない医療の届かない人々はこういう“野生” に近い状況に置かれているということになる医療や健康食品などの発達は大いに喜ばしいことだが本当の元である生命の力をわたしたちは食べているのだなあとあらためて思うことだった

やさしい秋

ほんのりとやさしい味のかぼちゃ茹でただけ
写真を撮る前に食べてしまうところだったデザートの梨までは手が届かなかった

やさしい味のかぼちゃができたかぼちゃは年中よく食べるこくこくしたもの味付けしたかぼちゃ少しべちゃっとしたものなど産地や調理?の仕方などによって味わいはずいぶん変わるどちらかというとわたしの好みはコクコク派だがどれでもまあ嫌いということはない基本的にかぼちゃ好きである

今回はあっさりした味でなんにも手をかけていないというその上にヨーグルトをかけて食べるつもりでいたそうだがわたしはそのままかぼちゃだけで食べた北海道産というわけでもないだろうがこれはコクコクしていない味も濃い方ではないが水っぽいというわけでもない人によっては物足りない味かも知れないしわたしもそんな気もしないではなかったが適度な柔らかさとほんのりした甘さがこの夏の厳しい暑さに疲れ気味のわたしにぴったりきたのかもしれません

暦の上ではとっくに秋なのに気温はまだ真夏のまま平年の最高気温が今年の最低気温に近いのだから秋など感じられるはずもないそうなのだがスーパーへ行けば栗が出ているトウモロコシも出ている梨もサンマももう食べた外を歩けば石榴が実をつけているやっぱり季節は秋へ秋へと進んでいるのである

美味しい秋は普通だがたまたまやや出来損ないの茹で方がわたしに「やさしい秋」をもたらしてくれた強さや激しさより「適度」の良さがすこし分かってきたのかもしれません