「スローライフ」という言葉が流行語になったことがある。今ではもう死語になってしまったかもしれない。文字通り、ゆっくり、のんびり生きようという意味だけれど、それが消えてしまったのは、結局ほとんどの人の生き方が変わらないかったからだと思う。
スローライフとはひとつの思想でしょう。ゆっくり、のんびり生きるということは、そのために多くのことを犠牲にする覚悟が要るということでもあったのに、のんびりという気分、ゆっくりというカッコよさだけに憧れたから、ちょっとしたマイナス要素に行き当たった時、大多数の人々が恐れおののいてそこから雲散霧消してしまったのでしょう。
それでも流行語になったことで、その意識の一部は社会の中に残り、宿根のように、いつかこんどはちゃんとした芽を出す日がくる可能性を残したと思う。歴史は繰り返す、と言われるが、単純に繰り返すことはあり得ない。時間は巻き戻せないのだ。似ているようでも中身を変え、中身が同じでも違うかたちを取って現れる。
nan fen a、もっとお金が欲しい、必要だという人(つまりわたしだ)にはスローライフは無理なのである。生まれた時から莫大な遺産があるような、そんな人がそういう思想を持てるならば可能かもしれないが、まあそういう人はいないだろう。生きていくのにやっとでは思想する余裕すらない。スローライフとは絵に描いた餅そのもの。けれど絵に描くことは無駄ではない。いつか食べてみたいと思うから。そしてそのために余裕なくあくせく働くのだから、望む方向とは逆ながら、結果的に社会の役には立っているのである。