
自然を取るか、都会を取るか。なんでも自分でやるか、お金で解決するかと言い換えるともう少しわかりやすかも知れない。そもそも選択そのものができないという人も少なくないに違いない。
生きていれば、意識的・無意識的に拘らず、毎日たくさんの選択肢(選ばないという選択肢も含めて)の中のどれかを選び続けることになる。時には前後に矛盾する選択もしながら、しかもそれを忘れ続けながら否応なく次の選択を迫られていく。今、究極の選択肢はこの2つに絞られているように思う。
小さな農漁村に行くと、まず空気や水が綺麗だなと感じる。自分の目が少し良くなったかと思うほど、視覚がクリアで鮮やかに感じられる。しばらくすると、ここに住む人々はどうやって生活しているのか、と幾分か不思議な気持になる。朝の天気を見て、今日は山へ行くか、川(海)へ行くかを決める。日によっては休む。誰に断る必要もない。山で何をするのかといえば仕事らしい仕事もない(山でせっせと仕事をしているのは土木会社などのサラリーマンだ)。川や海のひとは昆布を拾ったり(拾えばそれに付随する作業・仕事は続く)、漁があれば漁へ、なければ漁具の手入れとか。漁獲も半分はあてにならない「運」の要素が大きい。それでどうやって毎日を暮らしていくのか、都会の人から見たら不思議な感じがしないだろうか。少なくとも私には不思議な気がする。
寒村に暮らそうと、都会に暮らそうと、毎日食べるものは食べ、着るものは着なくてはならない。病気や怪我をすれば医者にもかからなければならないし、薬も必要だ。足腰の弱くなった人々には車が不可欠だし、田舎でのガソリンは概して都会より割高だ。ある意味、田舎暮らしはお金がかかるのだ。確実に現金収入を得られるサラリーマンの仕事はほとんどない。計算できるのは日雇いの現場作業員がせいぜい。老齢になればそれさえ無理だ。それでどうやって暮らすのか。
子供たちに聞いてみたくても子どもがいない。ほとんどの学校が廃校されているからだ。小さい子どものいる家庭は、都会へ引っ越こせと強制されているようなものだ。村政としては矛盾というか、ジレンマである。子どもを地域に残せば財政赤字、広い地域の子を無理に1カ所に通わせようとすれば、むしろ都会へ出た方が選択肢が広がるという状況がある。
画家などという仕事は、都会に住んで田舎暮らしをしているようなものかも知れない。どうやって暮らすのか。私は田舎暮らしのノウハウがよく分かっていない「田舎人」らしい。最近は田舎へ行くたびにより強く、そう感じるようになってきた。「根無し草」。そう言われたことも思い出す。